なぜ、いじめや差別はいけないのか

「ヘイトスピーチの規制、川崎市が刑事罰導入へ」に関連して興味を惹いた。

 

【引用】

なぜいじめや差別はいけないのか

そもそも、なぜいじめや差別をしてはいけないのでしょうか。香山さんは「人は人を殺さないというルールに厳密な論理も正確な理由もないはず。それと同じように、差別やいじめも仕方ないと認めているといっしょに生きていることができないから、『とにかくそれはやめよう』と考えてここまで生き延びてきました」と述べています。

香山さんは、いじめや差別をしたり、「自分は関係ない」と思っていたりすると、「自分で自分の首を絞めることになる」と指摘します。つまり、いつかは自分もいじめや差別を受けることになるかもしれないというのです。

今年3月、ツイッターで差別的な書き込みをしたとして世田谷年金事務所(東京都)の所長が更迭されました。日本年金機構が、所長のものと確認したアカウントには、特定の国会議員の名前を挙げるなどして、「国賊」「鬼畜」「非日本人」といった投稿を繰り返していました。

精神科医の香山さんは、このアカウントから自分あてに、「反日」とリプライが来たことがあるという。「年金事務所は様々な人のプライバシーを預かるところ。これほどのヘイト発言を繰り返す差別主義者が所長をしていたことはショック。公正に審査されていたのか、疑念を抱かざるを得ない」と話した。

部落差別問題では、戦前に発行された地名リストを入手した男性が2016年に書籍として刊行してネット上に掲載。被差別部落出身者らでつくる運動団体の部落解放同盟が「部落差別が助長される」として出版禁止やネット掲載禁止を求めて東京地裁に提訴しました。部落差別について香山さんは「被差別部落出身ということでさげすまれたり排除されたりすることはどんなにつらいことか。そこが差別はいけないという大原則だったのにそれが通じなくなっている」と嘆きます。

 

 

「こんなはずじゃなかった」という気持ち

それでは人間はなぜ、「自分は関係ない」と思ったり、いじめや差別をしたりしてしまうのでしょうか。「多くの人が『自己愛の傷つき』という問題を抱えている」と精神医学的な理由をあげます。

「自己愛」というのは「自分で自分のことを大切に思う」心の動きの一つです。この自己愛が大きくなって自分が傷つくと「私はこんなはずじゃなかった」とか「私はもっと輝いていたはずだ」という気持ちが募るというのです。

 

なぜ自己愛が傷ついてしまうのでしょうか。社会の競争が激しくなり、恵まれた立場の人たちほど「私はがんばった」「ものすごく努力した」と思い、他人に対して見る目が厳しくなっているといいます。

 

「誰がひどいヘイトスピーチをしているか」についていくつかの調査があるのですが、「その人たちは決して貧困や無職ではない」という結果も出ています。いちばん多いのは、「大きな都市の郊外に住む30代から40代の会社員」だそうです。(中略)では、なぜその人たちは、自分は恵まれているにもかかわらず、外国人をバカにしたり、追い出そうとしたりするのか。(中略)会社員など恵まれた立場の人たちほど、(中略)他人に対して見る目が厳しくなっているのです。

 

恐怖や葛藤をみなかったことにして自分を守る

深層心理学で「否認」という、恐怖や葛藤をみなかったことにして自分を守るメカニズムがあります。いじめや差別をする人にあてはめると、自分の不安や傷つきから自分を守っているというのです。競争の中で生まれる不安に直面するのは勇気がいることなので、それから目をそらしたいというのが「否認」なのです。

また、「否認」の心のメカニズムは、いじめや差別を受ける側や傍観者にも起こります。これがいじめや差別の発見や解決を遅らせる原因になるというのです。

 

私たちの心には、自分が認めたくないこと、認めるのはつらいことがあったときに、”見なかったふり”をする自動装置のようなものがついている(中略)この『打ち消す動き』のことを「否認」と呼びます。
この「否認」は、自分がいじめや差別の被害者のときも、加害者のときも、まわりで見ている人つまり傍観者のときも、同じように起きます。そして、この「否認」には、そのいじめや差別の内容がひどければひどいほど起きやすくなる、という性質もあります。たとえば、親からの虐待でからだにあざができたり骨折したりしている子どもが児童養護施設に保護されても、その子が「これは転んでできたケガなんだよ」と言い張ることがあります。子どもが自分に暴力をふるう親をかばってそう言うときもありますが、「否認」のメカニズムが働いて本当にそう思い込んでいる場合もあるのです」

 

他人をいじめる人生の結末

「確証バイアス」とは自分の考えに沿う情報しか信じない心理です。香山さんによると、一度いじめや差別を始めるとやめられなくなるのは「いったん『自分たちは正しい』『守られている』という思いを味わうと『確証バイアス』により、異論を受け入れられなくなるからだ」といいます。自分がしているいじめや差別に根拠がなかったという事実を告げられても修正することができないのです。

心理学でいう「確証バイアス」が働いて、自分のいったん信じたことを強化する情報しか取り入れなくなってしまうので。自分の気持ちにぴたっとはまるデマや陰謀論を聞くと、ほらやっぱりそうなんだ、と信じ込んでしまう。

 

このように他人をいじめたり差別し続けたりするとどうなるのでしょうか。「他人を攻撃することで自分が満たされる錯覚を起こしてしまう」としたうえで「いじめたり差別したりすることでしか自分の安心感を得られない、自信を持てなくなってしまう。いじめや差別に依存した、自分では何も解決できない、やりたいこともできない人生を送ることになる」と訴えます。

 

参考: https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190619-00000001-withnews-soci&p=3

 

 

【確証バイアス】

 

確証バイアス(かくしょうバイアス、英: confirmation bias)とは、認知心理学や社会心理学における用語で、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。認知バイアスの一種。また、その結果として稀な事象の起こる確率を過大評価しがちであることも知られている。

 

wikiより

 

 

【論点】

 

なぜ悪いのか、という結論部分を読むと「他人を攻撃することで自分が満たされる錯覚を起こしてしまう」とある。そして、それに依存してしまって、本来の人生を送ることができないからだと推察できる。

これについて思うのが、ヘイトスピーチ等も含めて、他人に対する中傷や攻撃は、「いずれ自分に跳ね返ってくる」という可能性が強いのは明白だ。

私は「見ざる・言わざる・聞かざる」といった上手くいく「三猿」の叡智を片隅に思い出す。

 

【本題を分ける】

 

私の住む近所では、「中国人がタバコをポイ捨て、東南アジア系のタイ人・マレーシア人がジュースのペットボトル等をポイ捨てする」のを目撃している。

たとえば、このような場合に、人によっては在日中国人や東南アジア系は悪だと感じる。それが時代と共にトラブルへと変わるのだろう、と考える。

しかし、本来の解決方法としては、ゴミ捨て問題の解決で落ち着くことはできる。すなわち、「言動の禁止」とは行き過ぎになるように思える。

 

いじめや差別問題も同様で、原因と結果などから分けて考える必要性が強い。いじめ・同性愛・部落・外国人・人種・障碍者と、それぞれ区別して考えるのが大事でしょう。

そして、いじめならば、「暴力を受ける」などのようなケースにおいて、それを解決する手段を考える。ここで挙げられている「ヘイトスピーチ」の実例では、ツイッターのアカウントによる被害とみえるので、これらは情報通信系の問題点となる。

 

【その他】

 

元々の原因が、恋愛系の事柄から発展し、相手を攻撃する判断材料として用いられるような場合もあるように感じた。「人が人を恨むプロセス」の中には、それなりの理由が存在するはずです。

 

最後に、「”見なかったふり”をする自動装置のようなものがついている」という相手の存在を否定するような「否認」「集団心理」も大きく絡んでいる。

川崎市のヘイトスピーチに関連していうと、「市民の意見を募るパブリックコメントを行い、12月議会に条例案を提出して成立を目指すとしている。」とある。このようなパブリックコメントを開催するに場合に、「大様の耳はロバの耳」のように、誰もが同じ意見で、いじめや差別は良くないとしか言えないと感じる。これは逆に反論等をすると、いじめや差別の対象となるからだ。

匿名性で住民投票をするなどのように考慮が必要なテーマに思う。

 

 

2019.6.20

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