三国志 (4)

橋畔風談(きょうはんふうだん)

蟠桃河(ばんとうが)の水は紅くなった。両岸の桃園は紅霞(こうか)をひき、夜は眉のような月が香った。
けれど、その水にも、詩を詠(よ)む人を乗せた一隻の舟もないし、杖をひいて、ふらふらと歩く雅人(がじん)の影もなかった。

「おっ母さん、行ってきますよ」
「ああ、行っておいで」
「なにか城内からおいしい物でも買ってきましょうかね」

劉備は、家を出た。
沓(くつ)や蓆(むしろ)をだいぶ納めてある城内の問屋へ行って、価(あたい)を取ってくる日だった。
午後の昼辺りから出ても、用達をすまして陽のあるうちに、楽に帰れる道のりなので、劉備はロバにものらなかった。

いつか羊仙のおいて行った山羊がよく馴れて、劉備の後についてくるのを、母が後ろで呼び返していた。
城内は、埃(ほこり)ッぽい。

雨が久しくなかったので、靴の裏がぽくぽくする。劉備は、問屋から銭を受け取って、脂(あぶら)光りのしている市(いち)の軒並みを見て歩いていた。

蓮根(れんこん)の菓子があった。劉備はそれを少し買い求めた。――けれど少し歩いてから、
「蓮根は、母の持病に悪いのじゃないか」と、取換えに戻ろうかと迷っていた。
がやがやと沢山な人が辻に集まっている。いつもそこは、野鴨(のがも)の丸揚げや餅など売っている場所なので、その混雑かと思うていたが、ふと見ると、大勢の頭の上に、高々と、立札が見えている。

「何だろ?」
彼も、好奇にかられて、人々のあいだから高札(こうさつ)を仰いだ。
見ると――

”遍(あまね)く天下に義勇の士を募(つの)る”
という布告の文であった。

黄巾(こうきん)の匪(ひ)、諸州に蜂起してより、年々の害、鬼畜の毒、惨として蒼生(そうせい)に青田(せいでん)なし。
今にして、鬼賊を誅(ちゅう)せずんば、天下知るべきのみ。
太守(たいしゅ)劉焉(りゅうえん)、遂に、子民の泣哭(きゅうこく)に奮って討伐の天鼓を鳴らさんとす。故に、隠れたる草廬(そうろ)の君子、野に潜(ひそ)むの義人、旗下に参ぜよ。
喜んで、各子の武勇に依って、府に迎えん。

琢郡校尉(たくぐんこうい)鄒靖(すうせい)

「なんだね、これは」
「兵隊を募(つの)っているのさ」
「ああ、兵隊か」
「どうだ、志願して行って、ひと働きしては」
「おれなどはだめだ。武勇も何もない。ほかの能もないし」
「誰だって、そう能のある者ばかり集まるものか。こう書かなくては、勇ましくないからだよ」
「なるほど」
「憎い黄匪(こうひ)めを討つんだ、槍の持ち方が分らないうちは、馬の飼糧(かいば)を刈っても軍(いくさ)の手伝いになる。おれは行く」

ひとりがつぶやいて去ると、そのつぶやきに決心を固めたように、二人去り、三人去り、皆、城門の役所のほうへ力のある足で急いで行った。

「…………」
劉備は、時勢の迫ってくる気配を聞いた。民心のおもむく潮(うしお)を見た。
――が。蓮根の菓子を手に持ったまま、いつまでも、考えていた。誰もいなくなるまで、高札と睨み合って考えていた。

「……ああ」
気がついて、間が悪そうに、そこから離れかけた。すると、誰か、楊柳(ようりゅう)のうしろから、
「若人。待ち給え」
と、呼んだ者があった。

さっきから楊柳の下に腰かけて、路傍(みちばた)の酒売りを相手に、声高に話していた男のあったことは、劉備も知っていた。
自分の様子を、横目ででも見ていたのだろうか、二、三歩、高札から足を退けると、
「貴公、それを読んだか」

片手に、酒杯(さかずき)を持ち、片手に剣の把(つか)を握って不意に起ってきたのである。
楊柳の幹より大きな肩幅を、後ろ向きに見ていただけであったが、立上がったのを見ると、実に見上げるばかりの偉丈夫であった。突然、山が立ったように見えた。

「……私ですか」
劉備はさらに改めて、その人を見なおした。
「うむ。貴公よりほかに、もう誰もいないじゃないか」
黒漆(こくしつ)の髯(ひげ)の中で、牡丹(ぼたん)のような口を開いて笑った。

声も年頃も、劉備と幾つも違うまいと思われたが、偉丈夫は、髪から腮(あご)まで、隙間もないように艶々しい髭(ひげ)をたくわえていた。

「――読みました」
劉備の答えは寡言(かごん)だった。
「どう読んだな、貴公は」と、彼の問いは深刻で、その眼は、烱々(けいけい)として鋭い。
「さあ?」
「まだ考えておるのか。あんなに長い間、高札と睨み合っていながら」
「ここで語るのを好みません」
「おもしろい」

偉丈夫(体が大きく丈夫な男)は、酒売りへ、銭と酒杯(さかずき)を渡して、ずかずかと、劉備のそばへ寄ってきた。そして劉備の口真似しながら、
「ここで語るのを好みません……いや愉快だ。その言葉に、おれは真実を聴く。さ、何処かへ行こう」

劉備は困ったが、「とにかく歩きましょう。ここは人目の多い市ですから」
「よし歩こう」
偉丈夫は、闊歩(かっぽ)した。劉備は並行してゆくのに骨が折れた。
「あの虹橋(こうきょう)の辺はどうだ」
「よいでしょう」

偉丈夫の指さすところは町はずれの楊柳の多い池のほとりだった。虹をかけたような石橋がある。そこから先は廃苑(はいえん)であった。何とかいう学者が池をほって、聖賢の学校を建てたが、時勢は聖賢の道と逆行するばかりで、真面目に通ってくる生徒はなかった。

学者は、それでも根気よく、石橋に立って道を説いたが、市の住民や童は、(気狂いだ)と、耳もかさない。それのみか、小賢(こざか)しい奴だと、石を投げる者もあったりした。

学者は、いつのまにか、ほんとの狂人になってしまったとみえ、ついには、あらぬ事を絶叫して、学苑の中をさまよっていたが、そのうちに蓮池の中に、あわれ死体となって浮び上がった。
そういう遺跡であった。

「ここはいい。掛けたまえ」
偉丈夫は、虹橋の石欄(せきらん)へ腰をかけ、劉備にもすすめた。
劉備は、ここまで来る間に、偉丈夫の人物をほぼ観ていた。そして、(この人間は偽(にせ)ものでない)と思ったので、ここへ来た時は、彼もかなりな落着きと本気を示していた。

「時に、失礼ですが、尊名から先に承りたいものです。私はここからほど遠くない楼桑村の住人で、劉備玄徳という者ですが」
すると偉丈夫は、いきなり劉備の肩を打って、「好印象のある青年。それはもう聞いておるじゃないか。この方の名だって、よくご承知のはずだが」といった。

「えっ? ……私も以前からご存じの方ですって」
「お忘れかな。ははは」
偉丈夫は、肩をゆすぶって、腮(あご)の黒い髯(ひげ)をしごいた。

「――無理もない。頬の刀傷で、容貌も少し変った。それにここ三、四年はつぶさに浪人の辛酸をなめたからなあ。貴公とお目にかかった頃には、まだこの黒髯もたくわえてなかった時じゃ」

そういわれても、劉備はまだ思い出せなかったが、ふと、偉丈夫の腰に付いている剣を見て、思わずあっと口をすべらせた。

「おお、恩人! 思い出しました。あなたは数年前、私が黄河から琢県(たくけん)のほうへ帰ってくる途中、黄匪(こうひ)に囲まれてすでに危うかった所を助けてくれた鴻家(こうけ)の浪士、張飛翼徳(ちょうひよくとく)と仰っしゃったお方ではありませんか」

「そうだ」
張飛はいきなり腕をのばして、劉備の手を握りしめた。その手は鉄のようで、劉備の掌(て)を握ってなお、五指が余っていた。

「よく覚えていて下された。いかにもその折の張飛でござる。かくの如く、髭をたくわえ、容貌を変えているのも、以来、志を得ずに、世の裏に潜んでおるがためです。――で実は、貴公に分るかどうか試してみたわけで、最前からの無礼はどうかゆるされい。」

偉丈夫に似あわず、礼には篤(あつ)かった。
すると劉備は、より以上、物腰が丁寧で礼儀正しくいった。

「豪傑。失礼はむしろ私のほうこそ咎めらるべきです。恩人のあなたを見忘れるなどということは、たとえいかに当時とお変りになっているにせよ、相済まないことです。どうか、劉備の罪はおゆるし下さい」

「やあ、ご丁寧(ていねい)で恐れいる。ではまあ、お互いとしておこう」
「時に、豪傑。あなたは今、この県城の市(まち)に住んでおるのですか」

「いや、話せば長いことになるが、いつかも打明け申した通り、どうかして黄巾賊に奪われた主家の県城を取返さんものと、民間にかくれては兵を興(おこ)し、また、敗れては民間に隠れ、幾度も幾度も事を謀(はか)ったが、黄匪の勢力はさかんになるばかりで、近頃はもう矢も尽き刀も折れたという恰好(かっこう)です。……で先頃から、このタクケンの地に流れてきて、山野の猪(いのこ)を狩って肉を屠(ほふ)り、それを市にひさいで露命をつないでおるような状態です。お笑い下さい。ここのところ、張飛も生活も落ちぶれて、みすぼらしい姿の態(てい)たらくなので」

「そうですか。少しも知りませんでした。そんなことなら、なぜ楼桑村の私の家を訪ねてくれなかったのですか」
「いや、いつかは一度、お目にかかりに参る心ではいたが、その折には、ぜひ尊公に、うんと承知してもらいたいことがあるので――その準備がまだこっちにできていないからだ」

「この劉備に、お頼みとは、いったい何事ですか」
「劉君」
張飛は、鏡のような眼をした。らんらんとそのなかに胸中の炬火(きょか)が燃えているのを劉備は認めた。

「尊公は今日、市で県城の布令を読まれたであろう」
「うむ。あの高札ですか」
「あれを見て、どう思われましたか。黄匪討伐の兵を募るという文を見て――」
「べつに、どうといって、何の感じもありません」
「ない?」
張飛は、斬りこむような語気でいった。明らかに、激怒の血を、顔に動かしてである。

けれど劉備は、
「はい。何も思いません。なぜなら、私には、ひとりの母がありますから。――従って、兵隊に出ようとは思いませんから」
水のように冷静にいった。

秋かぜが橋の下を吹く。
虹橋の下には、枯蓮(かれはす)の葉がからから鳴っていた。
びらっと、色羽の征箭(そや)が飛んだと見えたのは、水を離れた翡翠(かわせみ)だった。

「嘘だっ」
張飛は、静かな話し相手へ、いきなり怒鳴って、腰かけていた橋の石欄から突っ立った。
「劉君。貴公は、本心を人に秘して、この張飛へも、深くつつんでおられるな。いや、そうだ。張飛をご信用なさらぬのだ」

「本心? ……私の本心は今いった通りです。何をあなたにつつむものか」
「しからば貴公は、今の天下を眺めて、何の感じも抱かれないのか」
「黄匪の害は見ていますが、小さい貧屋(ひんおく)に、ひとりの母さえ養いかねている身には」

「人は知らず、張飛にそんなことを仰っしゃっても、張飛はあなたを、ただの土民と見ることはできぬ。打明けて下さい。張飛も武士です。他言は断じて致さぬ漢(おとこ)です」

「困りましたな」
「どうしても」
「お答えのしようがありません」
「ああ――」

失望・落胆(らくたん)して、張飛は、黒漆(こくしつ)の髭を秋かぜに吹かせていたが、何か、思い出したように、突然、身に着けている剣帯を解いて、
「お覚えがあるでしょう」と、鞘(さや)を握って、劉備の面(おもて)へ、横ざまに突きつけていった。

「これはいつか、貴公から礼にと手前へ賜わった剣です。また、私から所望した剣であった。――だが不肖は、いつか尊公に再び巡り合ったら、この品は、お手もとへ返そうと思っていた。なぜならば、これは張飛の如きただの男が持つ剣ではないからだ」

「…………」
「血しぶく戦場で、――また、戦(いくさ)に敗れて落ち行く草枕の寝覚めに――幾たびとなく拙者はこの剣を抜き払ってみた。そして、そのたびに、拙者は剣の声を聞いた」

「…………」
「劉君、其許(そこもと)は聞いたことがあるか、この剣の声を!」
「…………」
「一揮(き)して、風を断てば、剣は啾々(しゅうしゅう)と泣くのだ。星衝(つ)いて、剣把(けんぱ)から鋩子(ぼうし)までを俯仰(ふぎょう)すれば、朧夜(おぼろよ)の雲とまがう光の斑(ふ)は、みな剣の涙として拙者には見える」

「…………」
「いや、剣は、剣を持つ者へ訴えていうのだ。いつまで、わが身を、為(な)すなく室中に閉じこめておくぞと。――劉備どの、嘘と思わば、その耳に、剣の声を聞かそうか、剣の涙を見せようか」

「……あっ」
劉備も思わず石欄から腰を立てた。――止める間はなかった。張飛は、剣を払って、ぴゅっと、秋風を斬った。正しく、剣の声が走った。しかもその声は、劉備の腸(はらわた)を断つばかり胸をうった。

「君聞かずや!」
張飛は、いいながら、またも一振り二振りと、虚空に剣光を描いて、
「何の声か。そも」と、叫んだ。

そしてなおも、答えのない劉備を見ると、もどかしく思ったのか、橋の石欄へ片足を踏みかけて、枯蓮の池を望みながら独り云った。

「可惜(あたら)、治国愛民の宝剣も、いかにせん持つ人もなき末世(まっせ)とあってはぜひもない。霊あらば剣も恕(じょ)せ。猪肉売(いのこう)りの浪人の腰にあるよりは、むしろ池中に葬って――」

あなや、剣は、虹橋の下に投げ捨てられようとした。劉備は驚いて、走り寄るなり彼の腕を支え、「豪傑待ち給え」と、叫んだ。

張飛はもとより折角の名剣を泥池に捨ててしまうのは本意ではないから、止められたのを幸いに、
「何か?」と、わざと身を退いて、劉備の言を待つもののように見まもった。

「まず、お待ちなさい」
劉備は言葉しずかに、張飛の悲壮な顔いろをなだめて、
「真の勇者は慷慨(こうがい)せずといいます。また、大事は蟻(あり)の穴より漏るというたとえもある。ゆるゆる話すとしましょう。しかし、足下(そっか)が偽ものでないことはよく認めました。偉丈夫の心事を一時でも疑った罪はゆるして下さい」

「おっ。……では」
「風にも耳、水にも眼、大事は路傍では語れません。けれど自分は何をつつもう、漢の中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)の後胤(こういん)で、景帝の玄孫にあたるものです。……なにをか好んで、沓(くつ)を作り蓆(むしろ)を織って、黄荒(こうこう)の末季(まっき)を心なしに見ておりましょうや」と、声は小さく語韻(ごいん)はささやく如くであったが、凛(りん)たるものをうちに潜(ひそ)めていい、そしてにこと笑ってみせた。

「豪傑。これ以上、もう多言は吐く必要はないでしょう。折を見てまた会いましょう。きょうは市へきた出先で、遅くなると母も案じますから――」

張飛は獅子首を突きだして、噛みつきそうな眼をしたまま、いつまでも無言だった。これは感きわまった時にやるかれの癖なのである。それからやがて唸るような息を吐いて、大きな胸をそらしたと思うと、
「そうだったのか! やはりこの張飛の眼には誤りはなかった! いやいつか古塔の上から跳び降りて死んだかの老僧のいったことが、今思いあたる。……ウウム、あなたは景帝の裔孫(えいそん)だったのか。治乱興亡の長い星霜のあいだに、名門名族は泡沫(うたかた)のように消えてゆくが、血は一滴でも残されればどこかに伝わってゆく。ああ有難い。生きていたかいがあった。今月今日、張飛は会うべきお人に会った」

独りしてそう呻(うめ)いていたかと思うと、彼はにわかに、石橋の石の上にひざまずき、剣を奉じて、劉備へいった。

「謹んで、剣は、尊手へおかえしします。これはもともと、やつがれなどの身に付けるものではない。――が、ただしです。あなたはこの剣を受け取らるるや否や、この剣を所持するからには、この剣と共にある使命もあわせて背負ばならぬが」

劉備は、手を伸ばした。
何か、おごそかな姿だった。
「享(う)けましょう」
剣は、彼の手にかえった。

張飛は、いく度も、拝姿の礼を、くり返して、
「では、そのうちに、きっと楼桑村へ、お訪ねして参るぞ」
「おお、いつでも」

劉備は、今まで付けていた剣と付けかえて、前の物は、張飛へ戻した。それは張飛に救われた数年前に、取換えた物だったからである。

「日が暮れかけてきましたな。じゃあ、いずれまた」
夕闇の中を、劉備は先に、足を早めて別れ去った。風にふかれて行く水色の服は汚れていたが、剣は眼に見える黄昏(たそがれ)の万象の中で、なによりも異彩を放って見えた。

「体に持っている気品というものは争えぬものだ。どこか貴公子の風がある」
張飛は見送りながら、独り虹橋の上に立ち暮れていたが、やがて我にかえった顔をして、
「そうだ、雲長(うんちょう)にも聞かせて、早く歓ばしてやろう」と、何処ともなく馳けだしたが、劉備と違って、これはまた、一陣の風が黒い物となって飛んで行くようだった。

童学草舎(どうがくそうしゃ)

城壁の望楼で、今しがた、鼓(こ)が鳴った。
市(いち)は宵の燈となった。

張飛は一度、市の辻へ帰った。そして昼間ひろげていた猪(いのこ)の露店をしまい、猪の股や肉切り庖丁などを藁製(わらせい)の物にくくって持つとまた馳けだした。

「やあ、遅かったか」
城内の街から城外へ通じるそこの関門は、もう閉まっていた。
「おうい、開けてくれっ」
張飛は、望楼を仰いで、駄々っ子のようにどなった。
関門のかたわらの小さい兵舎から五、六人ぞろぞろ出てきた。とほうもない馬鹿者に訪れられたように、からかい半分に叱りとばした。

「こらっ。なにをわめいておるか。関門が閉まったからには、霹靂(へきれき)が墜ちても、開けることはできない。なんだ貴様は一体」

「毎日、城内の市へ、猪の肉を売りに出ておる者だが」
「なるほど、こやつは肉売りだ。なんで今頃、寝ぼけて関門へやってきたのか」
「用が遅れて、閉門の時刻までに、帰りそびれてしまったのだ。開けてくれ」

「正気か」
「酔うてはいない」
「ははは。こいつ酔っぱらっているに違いない。三べんまわってお辞儀をしろ」
「なに」
「三度ぐるりと廻って、俺たちを三拝したら通してやる」
「そんなことはできぬが、このとおりお辞儀はする。さあ、開けてくれ」

「帰れ帰れ。何百ぺん頭を下げても、通すわけにはゆかん。市の軒下へでも寝て、あした通れ」
「あした通っていいくらいなら頼みはせん。通さぬとあれば、汝らをふみつぶして、城壁を躍り越えてゆくがいいか」

「こいつが……」と、呆れて、
「いくら酒の上にいたせ、よいほどに引っ込まぬと、素ッ首を刎(は)ね落すぞ」
「では、どうしても、通さぬというか。おれに頭を下げさせておきながら」

張飛は、そこらを見廻した。酔いどれとは思いながら、雲つくような巨漢(おおおとこ)だし、無気味な眼の光にかまわずにいると、ずかずかと歩みだして、城壁の下に立ち、役人以外は登ることを厳禁している鉄梯子(かなばしご)へ片足をかけた。

「こらっ。どこへ行く」
ひとりは、張飛の腰の紐帯(ちゅうたい)をつかんだ。他の関門兵は、槍をそろえて向けた。

張飛は、髭の中から、白い歯を見せて、人なつこい笑い方をした。
「いいじゃないか。野暮(やぼ)をいわんでも……」
そしてたずさえている猪の肉の片股(かたもも)と、肉切り庖丁とを、彼らの目のまえに突き出した。

「これをやろう。貴公らの身分では、めったに肉も喰らえまい。これで寝酒でもやったほうが、俺になぐり殺されるより遥かにマシじゃろうが」
「こいつが、いわしておけば――」
また一人、組みついた。

張飛は、猪の股を振り上げて、突きだしてくる槍を束にして払い落した。そして自分の腰と首に組みついている二人の兵は、蠅(はえ)でもたかっているように、そのまま振りのけもせず、二丈余の鉄梯子を馳け登って行った。

「や、やっ」
「狼藉者(ろうぜきもの)っ」
「関門破りだっ」
「出合え。出合えっ」

狼狽して、わめき合う人影のうえに、城壁の上から、二箇の人間が飛んできた。もちろん、投げ落された人間も血漿(けっしょう)の粉になり、下になった人間も、肉餅(にくぺい)のように圧しつぶされた。

物音に、望楼の守兵と、役人らが出て見た時は、張飛はもう、二丈余の城壁から、関外の大地へとび降りていた。

「黄匪(こうひ)だっ」
「間諜だ」

警鼓(けいこ)を鳴らして、関門の上下では騒いでいたが、張飛はふりむきもせず、疾風のように馳けて行った。
五、六里も来ると、一条の河があった。蟠桃河(ばんとうが)の支流である。河向うに約五百戸ほどの村が墨のような夜靄(よもや)のなかに沈んでいる。村へはいってみるとまだそう夜も更(ふ)けていないので、所々の家の灯皿に薄暗い明りがゆらいでいる。

楊柳に囲まれた寺院がある。塀にそって張飛は大股に曲がって行った。すると大きな棗(なつめ)の木が五、六本あって、隠士の住居とも見える閑寂な庭があった。門柱はあるが扉はない。

そしてそこの入口に、
童学草舎(どうがくそうしゃ)
という看板がかかっていた。

「おういっ。もう寝たのか。雲長(うんちょう)、雲長」
張飛は、烈しく、奥の家の扉をたたいた。すると横の窓に、うすい灯がさした。帳(とばり)を揚げて誰か窓から首を出したようであった。

「だれだ」
「それがしだ」
「張飛か」
「おう、雲長」

窓の灯が、中の人影といっしょに消えた。間もなく、たたずんでいる張飛の前の扉がひらかれた。

「何用だ。今頃――」

手燭に照らされてその人の面(おもて)が昼みるよりもはっきり見えた。まず驚くべきことは、張飛にも劣らない背丈と広い胸幅であった。その胸にはまた、張飛よりも長い顎鬚(あごひげ)がふっさりと垂れていた。毛の硬(こわ)い者は粗暴で神経もあらいということがほんとなら、雲長というその者の髭のほうが、彼のものよりは軟かで素直でそして長いから、同時に張飛よりもこの人のほうが智的にすぐれているといえよう。

智的といえば、額もひろい。眼は鳳眼(ほうがん)であり、耳朶(じだ)は豊かで、総じて、体の巨(おお)きいわりに肌目(きめ)こまやかで、音声もおっとりしていた。

「いや、夜中とは思ったが、一刻もはやく、尊公にも聞かせたいと思って――よろこびを齎(もたら)してきたのだ」

張飛の言葉に、
「また、それを肴(さかな)に、飲もうというのじゃないかな」
「ばかをいえ。それがしを、そう飲んだくれとばかり思うているから困る。平常の酒は、鬱懐(うっかい)をはらすために飲むのだ。今夜はその鬱懐もいっぺんに散じて、愉快でならない吉報をたずさえて来たのだ。酒がなくても、ずいぶん話せることだ。あればなおいいが」

「ははははは。まあ入れ」
暗い廊を歩いて、一室へ二人はかくれた。その部屋の壁には、孔子やその弟子たちの聖賢の図がかかっていた。また、たくさんな机が置いてあった。門柱に見えるとおり、童学草舎は村の寺子屋であり、主(あるじ)は村童の先生であった。

「雲長――いつも話の上でばかり語っていたことだが、俺たちの夢がどうやらだんだん夢ではなく、現実になってきたらしいぞ。実はきょう、前からも心がけていたが――かねて尊公にも話していた劉備(りゅうび)という漢(おとこ)――それに偶然市で出会ったのだ。突っこんだ話をしてみたところ、果たして、ただの土民ではなく、漢室の宗族(そうぞく)景帝の裔孫(えいそん)ということが分った。しかも英邁(えいまい)な青年だ。さあ、これから楼桑村の彼の家を訪れよう。雲長、支度はそれでよいか」

「相かわらずだのう」
雲長(うんちょう)は笑ってばかりいる。張飛がせきたてても、なかなか腰を上げそうもないので、張飛は、「何が相かわらずだ」と、やや突っかかるような言葉で反問した。

「だって」と、雲長はまた笑い、「これから楼桑村へゆけば、真夜中(まよなか)を過ぎてしまう。初めての家を訪問するのに、あまり礼を知らぬことに当ろう。なにも、明日でも明後日でもよいではないか。”さあ”といえば、”それ”というのが、貴公の性質だが、文武両断たる者はよろしくもっと沈重な態度であって欲しいなあ」

せっかく、一刻も早く喜んでもらおうと思ってきたのに、案外、雲長が気のない返辞なので、
「ははあ。雲長。尊公はまだそれがしの話を、半信半疑で聞いておるんじゃないか。それで、渋ッたい面(おもて)をしておるのだろう。おれのことを、いつも短気というが、尊公の性質は、むしろ優柔不断というやつだ。壮図(そうと)を抱く勇者たる者は、もっと事に当って、果断であって欲しいものだ」

「ははははは。やり返したな。しかしおれは考えるな。なんといわれても、もっと熟慮してみなければ、うかつに、景帝の玄孫などという男には会えんよ。――世間に、よくあるやつだから」

「そら、その通り、拙者の言を疑っておるのではないか」
「疑ぐるのが常識で、疑わない貴公が元来、生一本のばか正直というものじゃ」
「聞き捨てにならんことをいう。おれがどうしてばか正直か」
「ふだんの生活でも、のべつ人に騙(だま)されておるではないか」
「おれはそんなに人に騙されたおぼえはない」

「騙されても、騙されたと覚らぬほど、尊公はお人が好いのだ。それだけの武勇をもちながら、いつも生活に困って、窮迫したり流浪したり、皆、尊公の浅慮がいたすところである。その上、短気ときているので、怒ると、途方もない暴をやる。だから張飛は悪いやつだと反対な誤解をまねいたりする。すこし反省せねばいかん」

「おい雲長。拙者は今夜、なにも貴公の叱言(こごと)を聞こうと思って、こんな夜中、やって来たわけではないぜ」

「だが、貴公とわしとは、かねて、お互いの大志を打明け、義兄弟の約束をし、わしは兄、貴公は弟と、固く心を結び合った仲だ。――だから弟の短所を見ると、兄たるわしは、憂えずにはいられない。まして、秘密の上にも秘密にすべき大事は、世間へ出て、二度や三度会ったばかりの漢(おとこ)へ、軽率に話したりなどするのはよろしくないことだ。そのうえ人の言をすぐ信じて、真夜中もかまわず直ぐ訪れようなんて……どうもそういう浅慮(あさはか)では案じられてならん」

雲長は、劉備の家を訪問するなどもってのほかだといわぬばかりなのである。彼は、張飛にとって、いわゆる義兄弟の義兄ではあるし、物分りもすぐれているので、話が、理になってくると、いつも頭は上がらないのであった。

出鼻をくじかれたので、張飛はすっかり悄気(しょげ)てしまった。雲長は気の毒になって、彼の好きな酒を出して与えたが、
「いや、今夜は飲まん」
と、張飛はすっかり無口になって、その晩は、雲長の家で寝てしまった。

夜が明けると、学舎に通う村童が、わいわいと集まってきた。雲長は、よく子供らにも馴(な)じまれていた。彼は、子どもらに孔孟(こうもう)の書を読んで聞かせ、文字を教えなどして、もう他念なき村夫子(そんぷうし)になりすましていた。

「また、そのうちに来るよ」
学舎の窓から雲長へいって、張飛は黙々とどこかへ出て行った。

むっとして、張飛は、雲長の家の門を出た。門を出ると、振向いて、
「ちぇっ。なんていう煮え切らない漢(おとこ)だろう」と、門へ罵(ののし)った。
楽しまない顔色は、それでも癒えなかった。村の居酒屋へ来ると、ゆうべから渇(かわ)いていたように、すぐ怒鳴った。

「おいっ、酒をくれい」
朝の空き腹に、斗酒(としゅ)をいれて、張飛はすこし、眼のふちを赤黒く染めた。
やや気色が晴れてきたとみえて居酒屋の亭主に、冗談など言い出した。

「おやじ、お前んとこの鶏(とり)は、おれに喰われたがって、おれの足もとにばかりまとってきやがる。喰ってもいいか」
「旦那、召しあがるなら、毛をむしって、丸揚げにしましょう」
「そうか。そうしてくれればなおいいな。あまり鶏めが慕ってくるから、生(なま)で喰(や)ろうと思っていたんだが」

「生肉をやると腹に虫がわきますよ、旦那」
「ばかをいえ。鶏(とり)の肉と馬の肉には寄生虫は棲(す)んでおらん」
「ヘエ。そうですか」
「体熱が高いからだ。すべて低温動物ほど寄生虫の巣だ。国にしてもそうだろう」
「へい」
「おや、鶏がいなくなった。おやじもう釜へ入れたのか」
「いえ。お代さえいただけば、揚げてあるやつを直ぐお出しいたしますが」

「銭はない」
「ごじょうだんを」
「ほんとだよ」
「では、お酒のお代のほうは」
「この先の寺の横丁を曲がると、童学草舎という寺子屋があるだろう。あの雲長のとこへ行って貰ってこい」
「弱りましたなあ」

「なにが弱る。雲長という漢(おとこ)は、武人のくせに、金に困らぬやつだ。雲長はおれの兄貴だ。弟の張飛が飲んで行ったといえば、払わぬわけにはゆくまい。――おいっ、もう一杯ついでこい」

亭主は、如才なく、彼をなだめておいて、その間に、女房を裏口からどこかへ走らせた。雲長の家へ問合せにやったものとみえる。間もなく、帰ってきて何かささやくと、
「そうかい。じゃあ飲ませても間違いあるまい」
おやじはにわかに、態度を変えて、張飛の飲みたい放題に、酒をつぎ鶏の丸揚げも出した。

張飛は、丸揚げを見ると、
「こんな、鶏の乾物(ひもの)など、おれの口には合わん。おれは動いている奴を喰いたいのだ」
と、そこらにいる鶏をとらえようとして、往来まで追って行った。

鶏は羽ばたきして、彼の肩を跳び越えたり、彼の危うげな股をくぐって、逃げ廻ったりした。
すると、しきりに、村の軒並を物色してきた捕吏が、張飛のすがたを認めると、率(ひ)きつれている十名ほどの兵へにわかに命令した。

「あいつだ。ゆうべ関門を破った上、衛兵を殺して逃げた賊は。――要心してかかれ」
張飛は、その声に、
「何だろ?」と、いぶかるように、あたりを酔眼で見まわした。一羽の若鶏が彼の手に脚をつかまえられて、けたたましく啼いたり羽ばたきをうっていた。

「賊っ」
「遁(のが)さん」
「神妙に縄にかかれ」

捕吏と兵隊に取囲まれて、張飛は初めて、おれのことかと気づいたような面もちだった。
「何か用か」
まわりの槍を見まわしながら、張飛は、若鶏の脚を引っ裂いて、その股の肉を横にくわえた。

酔うと酒くせのよくない張飛であった。それといたずらに殺伐(さつばつ)を好む癖は、二つの欠点であるとは常々、雲長からもよくいわれていることだった。

鶏(とり)を裂いて、股を喰らうぐらいな酒の上は、彼としては、いと穏当な芸である。――だが、捕吏や兵隊は驚いた。鶏の血は張飛の唇のまわりを染め、その炯々(けいけい)たる眼は怖ろしく不気味であった。

「なに? ……おれを捕まえにきたと。……わははははは。あべこべに取っつかまって、この通りになるなよ」

裂いた鶏を、眼の高さに、上げて示しながら、張飛は取囲む捕吏と兵隊を揶揄(やゆ)した。

捕吏は怒って、
「それっ、酔どれに、ぐずぐず言わすな。突き殺してもかまわん。かかれっ」と、呶号した。

だが、兵隊たちは、近寄れなかった。槍ぶすまを並べたまま、彼の周囲を巡りまわったのみだった。
張飛は、変な腰つきをして、犬みたいにつく這(ば)った。それがよけいに捕吏や兵隊を恐怖させた。彼の眼が向ったほうへ飛びかかってくる支度だろうと思ったからである。

「さあ、大きな鶏どもめ、一羽一羽、ひねりつぶすから逃げるなよ」
張飛はいった。

彼の頭にはまだ鶏を追いかけ廻している戯(たわむ)れが連続していて、捕吏の頭にも、兵隊の頭にも、鶏冠(とさか)が生えているように見えているらしかった。

大きな鶏どもは呆れかつ怒り心頭(しんとう)に発して、
「野郎っ」と、喚(わめ)きながら一人が槍でなぐった。槍は正確に、張飛の肩へ当ったが、それは猛虎の髭にふれたも同じで、張飛の酔いをして勃然(ぼつぜん)と遊戯から殺伐へと転向させた。

「やったな」
槍を引ったくると、張飛はそれで、莚(むしろ)の豆幹(まめがら)でも叩くように、まわりの人間を叩き出した。
叩かれた捕吏や兵隊も、はじめて死にもの狂いになり始めた。張飛は、面倒といいながら槍を虚空へ投げた。虚空へ飛んだ槍は、唸りを起したままどこまで飛んで行ったか、なにしろその附近には落ちてこなかった。

鶏の悲鳴以上な叫喚(きょうかん)が、一瞬の間に起って、一瞬の間にやんでしまった。

居酒屋のおやじ、居合せた客、それから往来の者や、附近の人たちは皆、家の中や木蔭にひそんで、どうなることかと、息をころしていたが、余りにそこが、急に墓場のような寂寞(しじま)になったので、そっと首を出して往来をながめると、ああ――と誰も呻(うめ)いたままで口もきけなかった。

首を払われた死骸、血へどを吐いた死骸、眼のとびだしている死骸などが、惨として、太陽の下(もと)にさらされている。
半分は、逃げたのだろう。捕吏も兵隊も、誰もいない。

張飛は?
と見ると、これはまた、悠長なのだ。村はずれのほうへ、後ろ姿を見せて、寛々(かんかん)と歩いてゆく。
その袂(たもと)に、春風はのどかに動いていた。酒のにおいが、遠くにまで、漂(ただよ)ってくるように――。

「たいへんだ。おい、はやくこのことを、雲長先生の家へ知らせてこい。あの漢(おとこ)が、ほんとに、先生の舎弟なら、これはあの先生も、ただでは済まないぞ」

居酒屋のおやじは、自分のおかみさんへ喚(わめ)いた。だが、彼の妻はふるえているばかりで役に立たないので、ついに自分であたふたと、童学草舎の横丁へ、馳けよろめいて行った。

三花一瓶(さんかいっぺい)

母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機(むしろばた)に向って、蓆を織っていた。

がたん……
ことん
がたん

水車の回(まわ)るような単調な音がくり返されていた。
だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜の譜(ふ)があった。
黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、劉備(りゅうび)の心にも、今日この頃の大地のように、希望の芽が生々と息づいていた。

ゆうべ。
劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
「一陽来復(ようらいふく)。おまえにも時節が来たらしいね。劉備や……心の支度もよいかえ」
と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟を糺(ただ)すようにいった。

時節。……そうだ。
長い長い冬を経て、桃園の花もようやく蕾(つぼみ)を破っている。土からも草の芽、木々の枝からも緑の芽、生命のあるもので、萌(も)え出ない物はなに一つない。

がたん……
ことん……

蓆機(むしろばた)は単調な音を繰り返しているが、劉備の胸は単調でない。こんな春らしい春をおぼえたことはない。

――我は青年なり。
空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の一片(ひとひら)が、紅(あか)く点じているではないか。
すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。

妾(ショウ)ガ髪初メテ額(ヒタイ)ヲ覆(オオ)ウ
花ヲ折ッテ門前ニ戯(タワム)レ
郎(ロウ)ハ竹馬ニ騎シテ来(キタ)リ
床(ショウ)ヲ繞(メグ)ッテ青梅ヲ弄(ロウ)ス

劉備は、耳を澄ました。
少女の美音は、近づいてきた。

……十四君(キミ)ノ婦ト為(ナ)ッテ
羞顔(シュウガン)未(イマ)ダ嘗(カツ)テ開カズ
十五初メテ眉(マユ)を展(ノ)ベ
願ワクバ塵(チリ)ト灰トヲ共ニセン
常ニ抱柱(ホウチュウ)ノ信ヲ存(ソン)シ
豈(アニ)上(ノボ)ランヤ望夫台(ボウフダイ)
十六君(キミ)遠クヘ行ク

近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青い棗(なつめ)みたいに小粒であったが、劉備の家のすぐ墻隣(かきどなり)の息子に恋しているらしく、星の晩だの、人気ない折の真昼などうかがっては、墻の外へきて、よく歌をうたっていた。

「…………」
劉備は、木蓮の花に黄金(きん)の耳環(みみわ)を通したような、少女の貌(かお)を眼にえがいて、隣の息子を、なんとなく羨(うらや)ましく思った。

そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合わされた鴻家(こうけ)の息女、鴻芙蓉(こうふよう)のその後の消息であった。
――どうしたろう。あれから先。
張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。

すると、墻(かき)の外で、しきりに歌をうたっていた少女が、犬にでも噛まれたのか、突然、きゃっと悲鳴をあげて、どこかへ逃げて行った。

少女は、犬に咬(か)まれたわけではなかった。
自分のうしろに、この辺で見たこともない、剣をつけた巨きな髭漢(ひげおとこ)が、いつのまにか来ていて、
「おい、小娘、劉備の家はどこだな」と、訊ねたのだった。

けれど、少女は、振向いてその漢(おとこ)を仰ぐと、姿を見ただけで、胆(きも)をつぶし、きゃっといって、逃げ走ってしまったのであった。

「あははは。わははは」
髭漢は、小娘の驚きを、滑稽に感じたのか、独りして笑っていた。
その笑い声が止むと一緒に、後ろの墻(かき)の内でも、はたと、蓆機(むしろばた)の音が止んでいた。

墻といっても匪賊(ひぞく)に備えるためこの辺では、すべてといってよい程、土民の家でも、土の塀か、石で組上げた物でできていたが、劉家だけは、泰平の頃に建てた旧家の慣わしで、高い樹木と灌木に、細竹を渡して結ってある生垣だった。
だから、背の高い張飛は、首から上が、生垣の上に出ていた。劉備の庭からもそれが見えた。

ふたりは顔を見合って、
「おう」
「やあ」
と、十年の知己のように呼び合った。

「なんだ、ここか」
張飛は、外から木戸口を見つけてはいって来た。ずしずしと地が鳴った。劉家はじまって以来、こんな大きな足音が、この家の庭を踏んだのは初めてだろう。

「きのうは失礼しました。君に会ったことや、剣のことを、母に話したところ、母もゆうべは歓んで、夜もすがら希望に耽(ふけ)って、語り明かしたくらいです」
「あ。こちらが貴公の母者人(ははじゃひと)か」
「そうです。――母上、このお方です。きのうお目にかかった翼徳(よくとく)張飛という豪傑は」

「オオ」
劉備の母は、機(はた)の前からすっと立って張飛の礼をうけた。どういうものか、張飛は、その母公の姿から、劉備以上、気高い威圧をうけた。

また、実際、劉備の母にはおのずから備わっている名門の気品があったのであろう。世の常の甘い母親のように、息子の友達だからといって、やたらに小腰をかがめたりチヤホヤはしなかった。

「劉備からお話は聞きました。失礼ですが、お見うけ申すからに頼もしい立派な方。どうか、柔弱なわたしの一子を、これから叱咤(しった)して下さい。おたがいに鞭撻(べんたつ)し合って、大事をなしとげて下さい」と、いった。

「はっ」
張飛は、自然どうしても、頭を下げずにはいられなかった。長上(ちょうじょう)に対する礼儀のみからではなかった。

「母公。安心して下さい。きっと男児の素志をつらぬいて見せます。――けれどここに、遺憾なことが一つ起りました。で、実はご子息に相談に来たわけですが」
「では、男同士のはなし、わたくしは部屋へ行っていましょう。ゆるりとおはなしなさい」
母は、奥へかくれた。

張飛は、その後の床几(しょうぎ)へ腰かけて、実は――と、自分の盟友、いや義兄とも仰いでいる、雲長のことを話しだした。
雲長も、自分が見込んだ漢(おとこ)で、何事も打明け合っている仲なので、早速、ゆうべ訪れて、仔細を話したところ、意外にも、彼は少しも歓んでくれない。
のみならず、景帝の裔孫(えいそん)などとは、むしろ怪しむべき者だ。そんな路傍の”まやかし”者と、大事を語るなどは、もってのほかであると叱られた。

「残念でたまらない。雲長めは、そういって疑うのだ。……ご足労だが、貴公、これから拙者と共に、彼の住居まで行ってくれまいか。貴公という人間を見せたら、彼も恐らくこの張飛の言を信じるだろうと思うから――」

張飛は、疑いが嫌いだ。疑われることはなお嫌いだ。雲長が、自分の言を信じてくれないのが、心外でならないのである。
だから劉備を連れて行って、その人物を実際に示してやろう――こう考えたのも張飛らしい考えであった。

しかし、劉備は、「……さあ?」と、いって、考えこんだ。
信じない者へ、強(し)いて、自己を押しつけて、信じろというのも、好ましくないとする風だった。

すると、廊のほうから、
「劉備。行っておいでなさい」
彼の母がいった。

母は、やはり心配になるとみえて、彼方(かなた)で張飛のはなしを聞いていたものとみえる。
もっとも、張飛の声は、この家の中なら、どこにいても聞えるほど大きかった。

「やあ、お許し下さるか。母公のおゆるしが出たからには、劉君、何もためらうことはあるまい」

促すと、母も共に、「時機というものは、その時をのがしたら、またいつ巡(めぐ)ってくるか知れないものです。――何やら、今はその天機が巡ってきているような気がするのです。些細(ささい)な気持などにとらわれずに、お誘いをうけたものなら、張飛どのにまかせて、行ってごらんなさい」

劉備は、母の言葉に、
「では、参ろう」と決心の腰を上げた。

二人は並んで、廊のほうへ、
「では、行ってきます」
礼をして、墻(かき)の外へ出て行った。

すると、道の彼方から、約百人ほどの軍隊が、まっしぐらに馳けてきた。騎馬もあり徒歩の兵もあった。埃(ほこり)の中に、青龍刀の白い光がつつまれて見えた。

「あ……、また来た」
張飛のつぶやきに、劉備はいぶかって、
「なんです、あれは」
「城内の兵だろう」
「関門の兵らしいですね。何事があったのでしょう」
「たぶん、この張飛を、召捕らえにきたのかも知れん」
「え?」

劉備は、驚きを喫(きっ)して、
「では、こっちへむかって来る軍隊ですか」
「そうだ。もう疑いない。劉君、あれをちょっと片づける間、貴公はどこかに休んで見物していてくれないか」
「弱りましたな」
「なに、大したことはない」
「でも、州郡の兵隊を殺戮(さつりく)したら、とてもこの土地にはおられませんぞ」

云っている間に、もう百余名の州郡の兵は張飛と劉備を包囲してわいわい騒ぎだした。
だが、容易に手は下してはこなかった。張飛の武力を二度まで知っているからであろう。けれど二人は一歩もあるくことはできなかった。

「邪魔すると、蹴殺すぞ」
張飛は、一方へこう怒鳴って歩きかけた。わっと兵は退いたが、背後から矢や鉄槍が飛んできた。

「面倒っ」
またしても、張飛は持ち前の短気を出して、すぐ剣の柄(つか)へ手をかけた。
――すると、彼方から一頭の逞(たくま)しい鹿毛(かげ)を飛ばして、
「待てっ、待てえ」
と呼ばわりながら馳けてくる者があった。州郡の兵も、張飛も、何気なく眼をそれへはせて振向くと、胸まである黒髯(こくぜん)を春風になぶらせ、腰に偃月刀(えんげつとう)の佩環(はいかん)を戛々(かつかつ)と響かせながら、手には緋総(ひぶさ)のついた鯨鞭(げいべん)を持った偉丈夫が、その鞭を上げつつ近づいてくるのであった。

それは、雲長であった。
童学草舎(どうがくそうしゃ)の村夫子(そんぷうし)も、武装すれば、こんなにも威風堂々と見えるものかと、眼をみはらせるばかりな雲長の風貌であった。

「待て諸君」
乗りつけてきた鹿毛の鞍から跳び降りると、雲長は、兵の中へ割って入り、そこに囲まれている張飛と劉備を後ろにして、大手をひろげながらいった。

「貴公らは、関門を守備する領主の兵と見うけるが、五十や百の小人数をもって、一体なにをなさろうとするのか。――この漢(おとこ)を召捕ろうとするならば」と、背後にいる張飛へ、顎を振向けて、
「まず五百か千の人数をそろえてきて、半分以上の屍(しかばね)はつくる覚悟がなければからめ捕ることはできまい。諸君は、この翼徳張飛(よくとくちょうひ)という人間が、どんな力量の漢か知るまいが、かつて、幽州の鴻家(こうけ)に仕えていた頃、重さ九十斤(きん)、長さ一丈八尺の蛇矛(じゃぼこ)をふるって、黄巾賊(こうきんぞく)の大軍中へ馳けこみ、屍山血河(しざんけつが)をつくって、半日の合戦に八百八屍(し)の死骸を積み、張飛のことを、八百八屍将軍と綽名(あだな)して、黄匪(こうひ)を戦慄させたという勇名のある漢だ。――それを、素手(すで)にもひとしい小人数で、からめ捕ろうなどは、檻へ入って、虎と組むようなもの、各々(おのおの)が皆、死にたいという願いで、この漢へかまうなら知らぬこと、命知らずな真似はやめたらどうだ。生命の欲しい者は足もとの明るいうちに帰れ。ここは、かくいう雲長にまかせて、ひとまず引揚げろ」

雲長は、実に雄弁だった。一息にここまで演説して、まったく相手の気をのんでしまい、さらに語をついでいった。

「――こういったら諸公は、わしを何者ぞと疑い、また、巧みに張飛を逃がすのではないかと、疑心を抱くであろうが、さに非(あら)ず、不肖はかりそめにも、童学草舎を営み子弟の薫陶(くんとう)を任とし、常に聖賢の道を本義とし、国主を尊び、法令を遵守(じゅんしゅ)すべきことを、身にも守り、子弟に教えている雲長関羽(うんちょうかんう)という者である。そして、これにいる翼徳張飛は、何をかくそう自身の義弟にあたる人間でもある。――だが、昨夜から今朝にかけて、張飛が官の吏兵を殺害し、関門を破り、酒の上で暴行したことを聞き及んで、ゆるしがたく思い、この上多くの犠牲(いけにえ)を出さんよりは、義兄たるわが手に召捕りくれんものと、かくは身固め致して、官へ願い出で、宙を馳せてこれへ駆けつけてきたわけでござる――。張飛はこの雲長が召捕って、後刻、太守の県城へまで送り届けん。諸公は、ここの事実を見とどけて、その由、先へご報告おきねがう」

雲長は、沓(くつ)をめぐらして、きっと張飛のほうへ今度は向きなおった。
そして、大喝(だいかつ)一声、
「ここな不届き者っ」
と、鯨の鞭(むち)で、張飛の肩を打ちすえた。

張飛は、むかっとしたような眼をしたが、雲長はさらに、
「縛(ばく)につけ」と、跳びかかって、張飛の両手を後ろへまわした。
張飛は、雲長の心を疑いかけたが、より以上、雲長の人物を信じる心のほうが強かった。

で――何か考えがあることだろうと、神妙に縄を受けて、大地へ坐ってしまった。
「見たか、諸公」
雲長は再び、呆っ気にとられている捕吏や兵の顔を見まわして、
「張飛は、後刻、それがしが県城へ直接参って渡すから、諸公は先へここを引揚げられい。それともなお、この雲長を怪しみ、それがしの言葉を疑うならば、ぜひもない、縄を解いて、この猛虎を、諸公の中へ放つが、どうだ」
いうと、捕吏も兵も、逃げ足早く、物もいわず皆、退却してしまった。

誰もいなくなると、雲長はすぐ張飛の縄を解いて、
「よく俺を信じて、神妙にしていてくれた。事なく助ける策謀のためとはいえ、貴様を手にかけた罪はゆるしてくれ」

詫びると、張飛も、
「それどころではない。また無益の殺生(せっしょう)を重ねるところを、尊兄のお蔭で助かった」と、今朝のむかっ腹もわすれて、いつになく、素直に謝った。そして、「――だが雲長。その身なりは一体、どうしたことか。俺を助けにくるためにしては、余りに物々しい装いではないか」

怪しんで問うと、
「張飛。なにをとぼけたことをいう。それでは昨夜、あんなに熱をこめて、時節到来だ、良き盟友をえた、いざ、かねての約束を、実行にかかろうといったのは、嘘だったのか」

「嘘ではないが、大体、尊兄が不賛成だったろう。俺のいうこと何ひとつ、信じてくれなかったじゃないか」
「それは、あの場のことだ。召使いもいる、女どももいる。貴様のはなしは、秘密秘密といいながら、あの大声だ。洩れてはならない――そう考えたから一応冷淡に聞いていたのだ」

「なんだ、それなら、尊兄もわしの言葉を信じ、かねての計画へ乗りだす肚(はら)を固めてくれたのか」
「おぬしの言葉よりも、実は、相手が楼桑村の劉備どのと聞いたので、即座に心はきめていたのだ。かねがね、わしの村まで孝子という噂の聞えている劉備どの、それによそながら、ご素姓や平常のことなども、ひそかに調べていたので」

「人が悪いな。どうも尊兄は、智謀を弄(ろう)すので、交際(つきあ)いにくいよ」
「ははは。貴様から交際いにくいといわれようとは思わなかった。人を殺し、酒屋を飲みたおし、その尻尾(しっぽ)は童学草舎へ持って行けなどという乱暴者から、そういわれてはたまらない」

「もう行ったか」
「酒屋の勘定ぐらいならよいが、官の捕手(とりて)を殺したのは、雲長の義弟だと分った日には、童学草舎へも子供を通わせる親はあるまい。いずれ官からこの雲長へも、やかましく出頭を命じてくるにきまっている」

「なるほど」
「他人事(ひとごと)のように聞くな」
「いや、済まん」
「しかし、これはむしろ、よい機(しお)だ。天意の命じるものである。こう考えたから、今朝、召使いや女どもへ、みな暇を出した上、通学してくる子供たちの親も呼んで、都合によって学舎を閉鎖するといい渡し、心おきなく、身一つになって、かくは貴様の後を追って来たわけだ。――さ。これから改めて、劉備どのの家へお目にかかりに行こう」

「いや。劉備どのなら、そこにいる」
「え? ……」
雲長は、張飛の指さす所へ、眼を振り向けた。

劉備は最前から、少し離れた所に立っていた。そして、張飛と雲長との二人の仲の睦(むつ)まじさと、その信義に篤い様子を見て、感にたえている面もちだった。

「あなたが劉備様ですか」
雲長は、近づいて行くと、彼の足もとへ最初から膝を折って、
「初めてお目にかかります。自分は河東解良(かとうかいりょう)・解県(かいけん)の産で、関羽(かんう)字(あざな)は雲長と申し、長らく江湖(こうこ)を流寓(りゅうぐう)のすえ、四、五年前よりこの近村に住んで、村夫子となって草裡にむなしく月日を送っていた者です。かねてひそかに心にありましたが、計らずも今日、拝姿の栄に会い、こんな歓ばしいことはありません。どうかお見知りおき下さい」
と、最高な礼儀をとって、慇懃(いんぎん)にいった。

劉備はあえて、卑下(ひげ)しなかったが、べつに尊大に構えもしなかった。雲長関羽の礼に対して、当り前に礼を返しながら、
「ご丁寧に。……どうも申し遅れました。私は、楼桑村に永らく住む百姓の劉玄徳という者ですが、かねて、蟠桃河(ばんとうが)の上流(かみ)の村に、醇風良俗の桃源があると聞きました。おそらく先生の高風に化されたものでありましょう。なにをいうにも、ここは路傍ですから、すぐそこの茅屋(あばらや)までお越しください」
と、誘えば、
「おお、お供しよう」

関羽も歩み、張飛も肩を並べ、共にそこからほど近い劉備の家まで行った。
劉備の母は、また新しい客がふえたので、不審がったが、張飛から紹介されて、関羽の人物を見、よろこびを現して、
「ようぞ、茅屋(あばらや)へ」と心から歓待した。

その晩は、母もまじって、夜更けまで語った。劉備の母は、劉家の古い歴史を、覚えている限り話した。
生れてからまだ劉備さえ聞いていない話もあった。
(いよいよ漢室のながれを汲んだ景帝(けいてい)の裔孫(えいそん)にちがいない)
張飛も、関羽も、今は少しの疑いも抱かなかった。

同時に、この人こそ、義挙の盟主になすべきであると腹にきめていた。
しかし、劉玄徳の母親思いのことは知っているので、この母親が、
(そんな危ない企みに息子を加えることはできない)
と、断られたらそれまでになる。関羽は、それを考えて、ぼつぼつと母の胸をたずねてみた。
すると劉備の母は、みなまで聞かないうちにいった。

「ねえ劉や、今夜はもうおそいから、おまえも寝み、お客様にも臥床(ふしど)を作っておあげなさい。――そして明日はいずれまた、お三名して将来の相談もあろうし、大事の門出でもありますし、母が一生一度の馳走をこしらえてあげますからね」

それを聞いて、関羽は、この母親の胸を問うなど愚(ぐ)であることを知った。張飛も共に、頭を下げて、「ありがとうござる」と、心服した。

劉備は、
「では、お言葉に甘えて、明日はおっ母さんに、一世一代の祝いを奢(おご)っていただきましょう。けれどそのご馳走は、吾々ばかりでなく、祭壇を設けて、先祖にも上げていただきたいものです」
「では、ちょうど今は、桃園の花が真盛りだから、桃園の中に蓆(むしろ)を敷こうかね」

張飛は手を打って、
「それはいい。では吾々も、あしたは朝から桃園を浄(きよ)めて、せめて祭壇を作る手助けでもしよう」
と、いった。

客の二人に床(しょう)を与えて、眠りをすすめ、劉備と母のふたりは、暗い厨(くりや)の片隅で、藁をかぶって寝た。劉が眼をさましてみると、母はもういなかった。夜は明けていたのである。どこかでしきりに、山羊の啼く声がしていた。
厨の窯(かまど)の下には、どかどかと薪(まき)がくべられていた。こんなに景気よく窯に薪の焚かれた例(ためし)は、劉備が少年の頃から覚えのないことであった。春は桃園ばかりでなく、貧しい劉家の台所に訪れてきたように思われた。

変更箇所等

燕飛龍髭(えんぴりゅうびん) -- ツバメが飛び龍が舞うような速さ
鄧茂(とうも)

何ギョウ(かぎょう) -- 中国後漢末期の政治家。へ・ヨン。
征箭(そや)のようにかすめた -- 鋭い矢を刺すように
曠(ひろ)い -- 広い
鬨(とき) -- 戦闘開始の合図のために皆で発した声
鬣(たてがみ)
驢(ろ) -- ロバ
仆れた -- 倒れた
百獣も為に怯(ひる)み -- 百獣も術もなく怯み
こなた -- こちらへ
踵(きびす)をめぐらす -- まっすぐ後ろを向いて、遠ざかる
抹石朱(まつしゅ) -- 朱色の鉱石の粉。赤い染料。
蔡?(さいよう) -- 蔡邑
夙(と)く -- ずっと早く。【引用】とっくの昔--。
容子 -- 様子(ようす)
譟(さわ)がしい -- 騒がしい
肚(はら) -- 腹。【腹が決まる。→決心する。】
一艘 — 一隻(せき)
逍遥(しょうよう) -- あちこちをぶらぶら歩くこと。散歩。そぞろ歩き。

午(ひる) -- 昼
沓(くつ) -- 靴
欣然(きぜん) -- 喜ぶ。嬉しい
跫音(きょうおん) -- 足音。近づいてくる気配・感覚。

髯(ひげ) -- 髭
遺蹟 --遺跡。歴史的な建造物
好漢(こうかん) -- 人間として好ましい男。良い感じを受ける男。好印象

慇懃(いんぎん) --人に接する物腰が丁寧で礼儀正しいこと。
鄭重(ていちょう) -- 丁重。礼儀正しく、態度が丁寧な様子。
尾羽(おは)打枯(うちか)らした態(てい)たらく -- 相当の身分の人がおちぶれ、みすぼらしい姿になる

呶鳴る -- 怒鳴る
憮然(ぶぜん)として -- 失望・落胆してどうすることもできないでいる
匹夫(ひっぷ) -- 身分の低い男。教養のない、ただの人。
苞(つと) -- 藁(わら)製のもの
霹靂(へきれき) -- 急に雷が激しく鳴ること
腮髯(あごひげ) -- 顎鬚

偉丈夫たる者 -- 体が立派で、すぐれた男
冗戯(じょうだん) -- 冗談
兄哥(あにき) -- 兄貴
愚図愚図 -- グズグズする
肚にきめていた -- 覚悟を決めていた。腹に決める

コメントを残す