死刑論。殺人者の死刑は必要だ!
世の中、「死刑は行き過ぎ」「死刑はされねばならない」等の倫理的な側面も含めて、多数の意見が存在します。
まず、私が感じたのは、「法治国家の中で、殺人を犯したものは罪の償いとして死刑は決められていること」として遂行されるべきだと思った。
そこで、抑止力や更正の機会のことなど、犯罪を犯した人でも検討する余地があると述べる方もいる。抑止力については、「死にたい理由で犯罪を犯した」とするケースでは、そもそも抑止効果は少ないとする研究者もいる。それを容疑者の望む死刑にしても相手の思うままで、終身刑にしても被害者の立場から許されないと難しいことになる。
この手の論議の最後には、「人が組み立てた法律の中で、人を裁くのは問題」という形に解決をしていく人も多い。ただ、私が思ったのは、仮に間違いのあるかもしれない人の造った法律でも、それを裁くのは間違いとは言えない。
例えば、神がいるとして、神は自然界に「強いもの、賢いもの、優れているもの・・・」などのように競争の中で、行き抜く「自然淘汰」を用いているように思う。つまり、人が作った法律の中で、間違いでも裁かれて消えていくのは弱者で、自然淘汰の領域の中のひとつに過ぎないでしょう。
また、神とかそういう存在は抜きにしても、人類の存続のためには、極端に異質なものは消えていくことは「必要枠」に考えられる。
ただ、ここでは、弱いもの犯罪者は消えていくと思われガチだが、それは違う。近年の事例でいうと、異質な人がコウモリの肉を食べて、それが基で世界に感染症が広がった、等のように、個人の自由権の中の行いから逸脱して、他の人々に害を与える場合です。
さらに、異質なものだから消えていく、と述べたが、全てがそうだと思わない。世界の発展や進歩のためと、世界や地域にとって害のある存在は似ていても異なる。つまり、連続殺人のようなケースにおいては、害になる異質なもの。
世界的にみると、キリスト教、イスラム教を比べても、その理(ことわり)は違います。
しかし、あまり倫理的・宗教的側面を論じてしまうと、「被害にあった人々も、その因果の流れの中の出来事」のように、超自然的なことに成りかねない。
法治国家の中では、どんな理由があろうと、殺人者は正当防衛のような正義がない限りは、罪を背負うのが最終的な手段に思えます。人が生きていく上で、一回のミスも許されないことも多い。間違った判断で、橋を渡り、落ちれば、誰でも死ぬことはあるし、取り返しの付かない事態はあるのだろう。
そういった喩えを用いるなら、死刑になる受刑者は、自ら判断を過ち、橋から落ちてしまった、そういうことになる。