誰もが本来ソースである
ラメッシ・バルセカールというマハラジの教えを探求者に答える方がいた。
有名な語句で「誰もが本来ソースである」というのがあります。
「そして、どう人生を生きるのか、幸せであるのか、そこが問題だ」となる。
様々な境地から、静寂の語ることを受け入れると、そこに既に幸せな事柄が見つかる、という感じのことです。たとえば、何も無かった時のことを思い浮かべて、今はプラスになっている。それを感じ取れるならば、喩え何も無くなっても元に戻るだけ。
「在るということにとどまりなさい」「すべてを手放しなさい」とそう言った表現を用いた内容もあったと記憶します。
私は何かこう些細な出来事で思うことがありますね。
たとえば、ゴミ問題なんかも、昔は焼却炉で焼いて埋めていて、その後に「黒のビニール袋」に詰める。それが透明となり、白と変わる。通信の仕事をしていたときにも思ったけれど、「家電(いえでん)」から携帯電話となり、スマートフォンと進化する。
子供の頃に思っていた「予想プラン」というか未来が今はある。
※ 家電(いえでん)=自宅のある電話機で、学校の連絡などをしていたり、直接的に友達にかけたりしていた。
それでね、物質的なモノゴトも重要な生活源であるのは大きい。ただ、アパートの一室に緑のみえる観葉植物を1つ置くだけでも、気持ちが変わる。
そして、そういった世界を自分で感じ取れるなら、楽しさや幸せが増えていく。逆に、自身で見つけられないと永遠につまらない環境で、嘆いているだけだ。
ラメッシ・バルセカールについていえば、「意識は語る」という方向に流れていく。
この問題というか、私が思ったのは、「火葬」「土葬」のテーマ。日本は基本的に火葬で、土葬は無い。ただ、今後宗教的に生じる問題に思える。
結局の話、「私と他」の事になる。類似したテーマを掘り下げていくと、いろいろ派生しそうです。
2019.11.28