ちっぽけな私・ちっぽけな勇気
「ちっぽけな私」が、ここに居る。いってみれば「一生ちっぽけ」なのかもしれない。
(上:FUNKY MONKEY BABYS 「ちっぽけな勇気」Youtube動画 dreamusicより)
【はじめに】
弱く小さな気心もあるが、どこか「ちっぽけな勇気」も忘れていない。それなのに、時間が過ぎると、大人になり、社会生活を独りで遂行しなければいけなくなる。
そればかりか、日常には集団生活の一面が数多く存在する。仮に独り暮らしであっても、近隣住民からの騒音が聞こえたり、生活を営むために仕事し、どうしても誰かと関わることでストレスが発生する。この社会に完全孤独は無い。
【きっかけ】
単純にストレスを抱えると「怒り」「イライラ」に変化することがあります。そのとき意外にも、私は別の発想をした。
それは「知人の先生だったら怒らない」と考え、続いて、仏教の釈迦やキリストならば、どのような対応を取るのだろうと真剣に思う。
結果、思いついた回答は、「相手を観察しなさい」「相手を見てごらんなさい」と云うように、私は考えた。
もし相手を見て、それでも「疾(やま)しい・後ろめたい」という気持ちが相手にあるのなら、自ら止めるだろう。また、相手を見ることで冷静に分析できるようにも思えた。
【 痛み 】
そこで相手を観察して、見事に対応したとします。すると、相手の思惑を優先する訳で、自分にとってマイナス的な要因が生まれます。つまり、精神的に高みを目指いたり、自身の向上を考えると、「痛みを吸収する術」が必要になってきます。
そこで釈迦やキリストはどうしたのかは別の機会に述べます。
【ちっぽけな私】
いくつかあって、「何か問題に当たると解決できない」「自然の中で独り歩いている」と感じることがある。前者と後者は異なる事例ですが、どことなく小ささを感じてしまう。
後者では、自然の広大さの中では「人間独りの大きさ・寿命」の限界がみえてくる。それは、数的な違いの無力さを理解してしまうのです。
ただ、「ちっぽけな私」が居ますが、逆に「ちっぽけな勇気」も残されています。その小さい勇気や希望は消えていない。
こういう精神的部分が消えると、「絶望」に変わるのだと感じます。
【自己防衛】
ちっぽけな存在だから、しょうがない。と、考えてしまうのは、恐らく「自己防衛」から来る危機管理の本能なのだと考えます。自身は無力だから、小さいから、不可能だという理由を探して正当化する。
ここで思うのが「理由付け」で安心するのは大事ですが、基本軸を考えていくことが重要に思える。
私も、もう少し読書などをして、人生に有利な形勢方法など探して行きたいですね。
2018.9.29