三国志 (5)

義盟(ぎめい)

桃園へ行ってみると、関羽と張飛のふたりは、近所の男を雇ってきて、園内の中央に、もう祭壇を作っていた。
壇の四方には、笹竹(ささだけ)を建て、清縄(せいじょう)をめぐらして金紙(きんし)銀箋(ぎんせん)の華(はな)をつらね、土製の白馬を贄(いけにえ)にして天を祭り、烏牛を狩ったことにして、地神を祠(まつ)った。

「やあ、おはよう」
劉備(りゅうび)が声をかけると、
「おお、お目ざめか」
張飛、関羽は、振向いた。

「見事に祭壇ができましたなあ。寝る間はなかったでしょう」
「いや、張飛が、興奮して、寝てから話しかけるので、ちっとも眠る間はありませんでしたよ」
と、関羽は笑った。

張飛は劉備の傍へきて、
「祭壇だけは立派にできたが、酒はあるだろうか」
心配して訊ねた。

「いや、母が何とかしてくれるそうです。今日は、一生一度の祝いだといっていますから」
「そうか、それで安心した。しかし劉兄、いいおっ母さんだな。ゆうべからそばで見ていても、羨(うらやま)しくてならない」
「そうです。自分で自分の母を褒めるのもへんですが、子に優しく世に強い母です」
「気品がある、どこか」
「失礼だが、劉兄には、まだ夫人(おくさん)はないようだな」
「ありません」
「はやくひとり娶(めと)らないと、母上がなんでもやっている様子だが、あのお年で、お気の毒ではないか」
「…………」

劉備は、そんなことを訊かれたので、またふと、忘れていた鴻芙蓉(こうふよう)の佳麗な姿を思い出してしまった。
で、つい答えを忘れて、何となく眼をあげると、眼の前へ、白桃の花びらが、霏々(ひひ)と情あるもののように散ってきた。

「劉備や。皆さんも、もうお支度はよろしいのですか」
厨に見えなかった母が、いつの間にか、三名の後ろにきて告げた。
三名が、いつでもと答えると、母はまた、いそいそと厨房のほうへ去った。

近隣の人手を借りてきたのであろう。きのう張飛の姿を見て、きゃっと魂消(たまげ)て逃げた娘も、その娘の恋人の隣家の息子も、ほかの家族も、大勢して手伝いにきた。
やがて、まず一人では持てないような酒瓶(さかがめ)が祭壇の莚(むしろ)へ運ばれてきた。

それから豚の仔を丸ごと油で煮たのや、山羊の吸物の鍋や、干菜(かんさい)を牛酪(ぎゅうらく)で煮つけた物だの、年数のかかった漬物だの――運ばれてくるごとに、三名は、その豪華な珍味の鉢や大皿に眼を奪われた。

劉備さえ、心のうちで、
「これは一体、どうしたことだろう」と、母の算段を心配していた。
そのうちにまた、村長の家から、花梨(かりん)の立派な卓と椅子がかつがれてきた。
「大饗宴だな」
張飛は、子どものように、歓喜した。
準備ができると、手伝いの者は皆、母屋へ退がってしまった。

三名は、
「では」
と、眼を見合せて、祭壇の前の蓆(むしろ)へ坐った。そして天地の神へ、
「われらの大望を成就させたまえ」
と、祈念しかけると、関羽が、
「ご両所。少し待ってくれ」
と、なにか改まっていった。

「ここの祭壇の前に坐ると同時に、自分はふと、こんな考えを呼び起されたが、両公の所存はどんなものだろうか」
関羽は、そう言いだして、劉備と張飛へ、こう相談した。

すべて物事は、体(たい)を基(もと)とする。体形を整えていないことに成功はあり得ない。
偶然、自分たち三人は、その精神において、合致を見、今日を出発として大事をなそうとするものであるが、三つの者が寄り合っただけでは、体をなしていない。

今は、小なる三人ではあるが、理想は遠大である。三体一心の体を整えおくべきではあるまいか。
事の中途で、仲間割れなど、よくある例である。そういう結果へ到達させてはならない。神のみ祷(いの)り、神のみ祀(まつ)っても、人事を尽さずして、大望の成就はあり得べくもあるまい。

関羽の説くところは、道理であったが、さてどういう体を備えるかとなると、張飛にも劉備にもさし当ってなんの考えもなかった。

関羽は、語をつづけて、
「まだ兵はおろか、兵器も金も一頭の馬すら持たないが、三名でも、ここで義盟を結べば、即座に一つの軍である。軍には将がなければならず、武士には主君がなければならぬ。行動の中心に正義と報国を奉じ、個々の中心に、主君を持たないでは、それは徒党の乱に終り、烏合(うごう)の衆(しゅう)と化してしまう。――張飛もこの関羽も、今日まで、草田(そうでん)に隠れて時を待っていたのは、実に、その中心たるお人が容易にないためだった。ちょうどその時、劉備玄徳という、しかも血統の正しいお方に会ったのが、急速に、今日の義盟の会となったのであるから、今日ただいま、ここで劉備玄徳どのを、自分らの主君と仰ぎたいと思うが、張飛、おまえの考えはどうだ」

訊くと、張飛も、手を打って、
「いや、それは拙者も考えていたところだ。いかにも、兄(けい)のいう通り、決めるならば、今ここで、神に祷(いの)るまえに、神へ誓ったほうがよい」
「玄徳様、ふたりの熱望です。ご承知くださるまいか」

左右から詰めよられて、劉備玄徳は、黙然と考えていたが、
「待って下さい」
と、二人の意気ごみを抑え、なおややしばらく沈思してから、身を正していった。

「なるほど、自分は漢の宗室のゆかりの者で、そうした系図からいえば、主たる位置に坐るべきでしょうが、生来鈍愚、久しく田舎(でんしゃ)の裡(うち)にひそみ、まだなにも各々(おのおの)の上に立って主君たるの修養も徳も積んでおりませぬ。どうか今しばらく待って下さい」

「待ってくれと仰っしゃるのは」
「実際に当って、徳を積み、身を修め、果たして主君となるの資才がありや否や、それを自身もあなたたちも見届けてから約束しても、遅くないと思われますから」
「いや。それはもう、われわれが見届けてあるところです」

「そうは言っても、私はなお、気兼ねさせられます。――ではこうしましょう。君臣の誓いは、われわれが一国一城を持った上として、ここでは、三人義兄弟の約束を結んでおくことにして下さい。君臣となって後も、なお三人は、末永く義兄弟であるという約束をむしろ私はしておきたいのですが」

「うむ」
関羽は、長い髭を持って、自分の顔を引っぱるように大きくうなずいた。
「結構だ。張飛、おぬしは」
「異論はない」
改めて三名は、祭壇へ向って牛血と酒をそそぎ、ぬかずいて、天地の神祇(しんぎ)に黙祷(もくとう)をささげた。

年齢からいえば、関羽がいちばん年上であり、次が劉備、その次が張飛という順になるのであるが、義約のうえの義兄弟だから年順をふむ必要はないとあって、「長兄には、どうか、あなたがなって下さい。それでないと、張飛の我ままにも、おさえが利きませんから」と、関羽がいった。

張飛も、ともども、
「それは是非、そうありたい。いやだといっても、二人して、長兄長兄と崇(あが)めてしまうからいい」

劉備は強いて拒(いな)まなかった。そこで三名は、向かい合って座り、将来の理想をのべ、刎頸(ふんけい)の誓(ちかい)いをかため、やがて壇をさがって桃下の卓を囲んだ。

「では、永く」
「変るまいぞ」
「変らじ」
と、兄弟の杯を交わし、そして、三人一体、協力して国家に報じ、下万民の塗炭(とたん)の苦を救うをもって、大丈夫の生涯とせんと申し合った。

張飛は、すこし酔うてきたとみえて、声を大にし、杯を高く挙げて、
「ああ、こんな吉日はない。実に愉快だ。再び天にいう。われらここにあるの三名。同年同月同日に生まるるを希(ねが)わず、願わくば同年同月同日に死なん」
と、声高く言った。そして、
「飲もう。大いに、今日は飲もう――ではありませんか」
などと、劉備の杯へも、やたらに酒をついだ。そうかと思うと、自分の頭を、ひとりで叩きながら、「愉快だ。実に愉快だ」と、子供みたいに叫けんだ。

あまり彼の酒が、上機嫌に発しすぎる傾きが見えたので、関羽は、
「おいおい、張飛。今日のことを、そんなに歓喜してしまっては、先の歓びは、どうするのだ。今日は、われら三名の義盟ができただけで、大事の成功不成功は、これから後のことじゃないか。少し有頂天になるのが早すぎるぞ」と、たしなめた。

だが、一たん上機嫌に昇ってしまうと、張飛の機嫌は、なかなか水をかけても醒(さ)めない。関羽の生真面目を、手を打って笑いながら、
「わはははは、今日かぎり、もう村夫子は廃業したはずじゃないか。お互いに軍人だ。これからは天空海闊(てんくうかいかつ)に、豪放磊落(ごうほうらいらく)に、武人らしく交際(つきあ)おうぜ。なあ長兄」
と、劉備へも、すぐ馴々(なれなれ)といって、肩を抱いたりした。
「そうだ。そうだ」と、劉備玄徳は、にこにこ笑って、張飛のなすがままになっていた。

張飛は、牛の如く飲み、馬のごとく喰ってから、
「そうそう。ここの席に、劉母公(りゅうぼこう)がいないという法はない。われわれ三人、兄弟の杯をしたからには、俺にとっても、尊敬すべきおっ母さんだ。――ひとつおっ母さんをこれへ連れてきて、乾杯しなおそう」

急に、そんなことを言いだすと、張飛はふらふら母屋のほうへ馳けて行った。そしてやがて、劉母公を、無理に、自分の背中へ負って、ひょろひょろ戻ってきた。

「さあ、おっ母さんを、連れてきたぞ。どうだ、俺は親孝行だろう――さあおっ母さん、大いに祝って下さい。われわれ孝行息子が三人も揃いましたからね――いやこれは、独りおっ母さんにとって祝すべき孝行息子であるのみではない。支那の――国家にとってもだ、われわれこう三名は得がたい忠良息子ではあるまいか――そうだ、おっ母さんの孝行息子万歳、国家の忠良息子万歳っ」

そしてやがて、こう三人の中では、酒に対しても一番の誠実息子たるその張飛が、まっ先に酔いつぶれて、桃花の下に大いびきで寝てしまい、夜露の降りるころまで、眼を醒まさなかった。

大丈夫の誓いは結ばれた。しかし徒手空拳(としゅくうけん)とはまったくこの三人のことだった。しかも志は天下にある。

「さて、どうしたものか」
翌日はもう酒を飲んでただ快哉(かいさい)をいっている日ではない。理想から実行へ、第一歩を踏みだす日である。

朝飯を食べると、すぐその卓の上で、いかに実行へかかるかの問題がでた。
「どうかなるよ。男児が、しかも三人一体で、やろうとすれば」
張飛は、理論家でない。また計画家でもない。遮二無二(しゃにむに)、実行力に燃える猪突邁進家(ちょとつまいしんか)なのである。

「どうかなるって、ただ貴公のように、力(りき)んでばかりいたってどうもならん。まず、一郡の士を持たんとするには、一旗の兵がいる。一旗の兵を持つには、すくなくとも相当の軍費と、兵器と、馬とが必要だな」
が、関羽は、常識家であった。二人のことばを飽和(ほうわ)すると、そこにちょうどよい情熱と常理との推進力が醸(かも)されてくる。

劉備は、そのいずれへも、うなずきを与えて、
「そうです。こう三人の一念をもってすれば、必ず大事を成しうることは目に見えていますが、さし当って、兵隊です。――これをひとつ募(つの)りましょう」
「馬も、兵器も、金もなく、募りに応じてくれる者がありましょうか」

関羽の憂いを、劉備はかろく微笑をもって打消し、
「いささか、自信があります。――というのは、実はこの楼桑村の内にも、平常からそれとなく、私が目にかけた、同憂の志を持っている青年たちが少々あります。――また近郷にわたって、檄(げき)を飛ばせば、おそらく今の時勢に、鬱念(うつねん)を感じている者もすくなくはありませんから、きっと、三十人や四十人の兵はすぐできるかと思います」

「なるほど」
「ですから、恐れいるが、関羽どのの筆で、ひとつ檄文(げきぶん)を起草して下さい。それを配るのは、私の知っている村の青年にやらせますから」
「いや、手前は、生来悪文の質(たち)ですから、ひとつそれは、劉長兄に起草していただこう」

「いいや、あなたは多年塾を持って、子弟を教育していたから、そういう子弟の気持を打つことは、よくお心得のはずだ。どうか書いて下さい」
すると張飛がそばからいった。

「こら関羽、怪(け)しからんぞ」
「なにが怪しからん」
「長兄劉玄徳のことば、主命の如く反(そむ)くまいぞ、昨日、約束したばかりじゃないか」
「やあ、これは一本、張飛にやられたな、よし早速書こう」
飛檄(ひげき)はでき上がった。

なかなか名文である。荘重なる慷慨(こうがい)の気と、憂国の文字は、読む者を打たずにおかなかった。
それが近郷へ飛ばされると、やがてのこと、劉玄徳の破れ家の門前には、毎日、七名十名ずつとわれこそ天下の豪傑たらんとする熱血の壮士が集まってきた。

張飛は、門前へ出て、
「お前達は、われわれの文書を見て、兵隊になろうと望んできたのか」
と、採用係の試験官になって、いちいち姓名や生国や、また、その志を質問した。

「そうです、大人(たいじん)がたのお名前と、義挙の趣旨に賛同して、旗下に馳せ参じてきた者どもです」
壮士らは異口同音にいった。

「そうか、どれを見ても、たのもしい面魂(つらだましい)、早速、われわれの旗挙げに、加盟をゆるすが、しかしわれらの志は、黄巾賊の輩の如く、野盗掠奪を旨とするのとは違うぞ。天下の塗炭(とたん)を救い、害賊を討ち、国土に即した公権を確立し、やがては永遠の平和と民福を計るにある。分っておるかそこのところは!」
張飛は、一場の訓示を垂れて、それからまた、次のように誓わせた。

「われわれの旗下に加盟するからには、即ち、われわれの奉じる軍律に服さねばならん。今、それを読み聞かすゆえ、謹んで承(うけたまわ)れ」
張飛は、志願してきた壮士たちへいって、うやうやしく、懐中(ふところ)から一通を取出して、声高く読んだ。

一 卒(そつ)たる者は、将たる者に、絶大の服従と礼節を守る。
一 目前の利に惑わず、大志を遠大に備う。
一 一身を浅く思い、一世を深く思う。
一 掠奪断首(りゃくだつだんしゅ)。
一 虐民極刑(ぎゃくみんきょっけい)。
一 軍紀を紊(みだ)る行為一切死罪。

「わかったかっ」
あまり厳粛なので、壮士たちも、しばらく黙っていたが、やがて、
「分りました」と、異口同音にいった。

「よし、しからば、今よりそれがしの部下として用いてやる。ただし、当分の間は給料もつかわさんぞ。また、食物その他も、お互いにある物を分けて喰い、いっさい不平を申すことならん」

それでも、募りに応じてきた若者輩(ばら)は、元気に兵隊となって、劉備、関羽らの命に服した。
四、五日のうちに、約七、八十人も集まった。望外な成功だと、関羽はいった。
けれど、すぐ困りだしたのは食糧であった。ゆえに、一刻もはやく、戦争をしなければならない。

黄匪(こうひ)の害に泣いている地方はたくさんある。まずその地方へ行って、黄巾賊を追っぱらうことだ。その後には、正しい税と食物とが収穫される。それは掠奪でない。天禄(てんろく)だ。

するとある日。
「張将軍、張将軍。馬がたくさん通りますぞ、馬が」
と、一人の部下が、ここの本陣へ馳せてきて注進した。

何者か知らないが、何十頭という馬を数珠(じゅず)つなぎにひいて、この先の峠を越えてくる者があるという報告なのだ。
馬と聞くと、張飛は、「そいつは何とか欲しいものだなあ」と正直にうなった。
実際いま、喉(のど)から手の出るほど欲しい物は馬と金と兵器だった。だが、義挙の軍律というものを立てて部下にも示してあるので、「掠奪して来い」とは、命じられなかった。

張飛は、奥へ行って、
「関羽、こういう報告があるが、なんとか、手に入れる工夫(くふう)はあるまいか。実に天の与えだと思うのだが」と、相談した。

関羽は聞くと、
「よし、それでは、自分が行って、掛合ってみよう」と、部下数名をつれて、峠へ急いで行った。麓の近くで、その一行とぶつかった。物見の兵の注進に過(あやま)りなく、成程、四、五十頭もの馬匹をひいて、一隊の者がこっちへ下ってくる。近づいて見ると皆、商人ていの男なので、これならなんとか、話合いがつくと、関羽は得意の雄弁をふるうつもりで待ち構えていた。

ここへきた馬商人(あきんど)の一隊の頭(かしら)は、中山(ちゅうざん)の豪商でひとりは蘇双(そそう)、ひとりは張世平(ちょうせいへい)という者だった。
関羽は、それに着くと、自分ら三人が義軍を興すに至った、愛国の誠意をもって、切々訴えた。今にして、誰か、この覇業を建て、人天の正明をたださなければ、この世は永遠の闇黒であろうといった。支那大陸は、ついに、胡北(こほく)の武民に征服され終るであろうと嘆いた。

張世平と蘇双の両人は、なにか小声で相談していたが、やがて、
「よく分りました。この五十頭の馬が、そういうことでお役に立てば満足です。差上げますからどうぞ引いて行って下さい」と、意外にも、いさぎよく云った。

いずれ易々とは承知しまい。最悪な場合までを関羽は考えていたのである。それが案外な返辞に、
「ほ。……いや忝(かたじ)けない。早速の快諾に、申しては失礼だが、利に敏(さと)い商人たるお身らが、どうしてそう一言のもとに、多くの馬匹(ばひつ)を無料でそれがしへ引渡すといわれたか」

掛合いにきた目的は達しているのに、こう先方へ要(い)らざる念を押すのも妙な話だと思ったが、あまり不審なので、関羽はこう訊ねてみた。
すると、張世平はいった。

「はははは。あまりさっぱりお渡しするといったので、かえってお疑いとみえますな。いやごもっともです。けれど手前は、第一にまず大人(たいじん)が悪人でないことを認めました。第二に、ご計画の義兵を挙げることは、すこぶる時宜(じぎ)をえておると存じます。第三は、あなた方のお力をもって、自分らの恨みをはらしていただきたいと思ったからです」

「恨みとは」
「黄巾賊の大将張角一門の暴政に対する恨みでございます。手前も以前は中山で一といって二と下らない豪商といわれた者ですが、かの地方もご承知の通り黄匪の蹂躙(じゅうりん)にあって秩序は破壊され、財産は掠奪され、町に少女の影を見ず、家苑(かえん)の小禽(ことり)すら啼(な)かなくなってしまいました。――手前の店なども一物もなく没収され、あげくの果てに、妻も娘も、暴兵にさらわれてしまったのです」

「むむ。なるほど」
「で、甥の蘇双(そそう)と二人して、馬商人に身を落し、市から馬匹を購入して、北国へ売りに行こうとしたのですが、途中まで参ると、北辺の山岳にも、黄賊が道をふさいで、旅人の持物を奪い、虐殺をほしいままにしておるとのことに、むなしくまた、この群馬をひいて立ち帰ってきたわけです。南へ行くも賊国、北へおもむくも賊国、こうして馬とともに漂泊しているうちには、ついに賊に生命まで共に奪われてしまうのは知れきっています。恨みのある賊の手に武力となる馬匹を与えるよりも、貴下の如きお志を抱く人に、進上申したほうが、はるかに意味のあることなんです。よろこんで手前がお渡しする気持というのは、そんなわけでございます」

「やあ、そうか」
関羽の疑問も氷解して、
「では、楼桑村まで、馬をひいて一緒に来てくれないか。われわれの盟主と仰ぐ劉玄徳と仰っしゃる人にひきあわせよう」

「おねがい致します。手前も根からの商人ですから、以上申上げたような理由でもって、無料で馬匹を進上しましても、やはりそこはまだ正直、利益のことを考えておりますからな」
「いや、玄徳様へお目にかかっても、ただ今のところ、代金はお下げになるわけにはゆかぬぞ」

「そんな目先のことではありません。遠い将来でよろしいので。……はい。もしあなたがたが大事を成しとげて、一国を取り、十州二十州を平らげ、あわよくば天下に号令なさろうという筋書きのとおりに行ったらば、私へも充分に、利をつけて、今日の馬代金を払っていただきたいのでございます。私は、あなたの計画を聞いて、これがあなたがたの夢ではなく、わたしども民衆が待っていたものであるという点から、きっと成功するものと信じております。ですから、今日この処分に困っている馬を使っていただくのは、商人として、手前にも遠大な利殖の方法を見つけたわけで、まったくこんなよろこばしいことはありません」

張世平は、そういって、甥の蘇双と共に、関羽に案内されてついて行ったが、その途中でも、関羽へ対して、こう意見を述べた。

「事を計るうえは、人物はお揃いでございましょうし、馬もこれで整いました。これで一体、あなた方のご計画の内輪には、よく経済を切りまわして糧食兵費の内助の役目をする算数の達識が控えているのでございますか。算盤(そろばん)というものも、充分お考えのうえでこのお仕事にかかっておいででございますか?」

張世平に、そう指摘されてみると、関羽は、自分らの仲間に、大きな欠陥(けっかん)のあるのを見いだした。
経営ということであった。

自分はもとより、張飛にも、劉玄徳にも、経済的な観念は至ってない。武人銭(ぜに)を愛さずといったような思想がはなはだ古くから頭の隅にある。経済といえばむしろ卑しみ、銭といえば横を向くをもって清廉の士とする風が高い。一個の人格にはそれも高風と仰ぎうるが、国家の大計となればそれでは不具を意味する。

一軍を持てばすでに経営を思わねばならぬ。武力ばかりでふくらもうとする軍は暴軍に化しやすい。古来、理想はあっても、そのため、暴軍と堕(だ)し、乱賊と終った者、史上決してすくなくない。

「いや、いいことを聞かしてくれた。劉玄徳様にも、大いにそのへんのことを話して貰いたいものだ」

関羽は、正直、教えられた気がしたのである。一商人の言葉といえども、これは将来の大切な問題だと考えついた。
やがて、楼桑村に着く。
関羽はすぐ張世平と蘇双のふたりを、劉玄徳の前につれて来た。もちろん、玄徳も張飛も、張の好意を聞いて非常によろこんだ。

張は五十頭の馬匹を、無償で提供するばかりでなく、玄徳に会ってから玄徳の人物をさらに見込んで、それに加うるに、駿馬に積んでいた鉄一千斤(きん)と、百反(たん)の獣皮織物と、金銀五百両を挙げてみな、「どうか、軍用の費に」と、献上した。

その際も、張はいった。
「最前も、みちみち、申しました通り、手前はどこまでも、利を道とする商人です。武人に武道あり、聖賢に文道あるごとく、商人にも利道があります。ご献納申しても、手前はこれをもって、義心とは誇りません。その代り、今日さし上げた馬匹金銀が、十年後、三十年後には、莫大な利を生むことを望みます。――ただその利は、自分一個で飽慾(ほうよく)しようとは致しません。困苦の底にいる万民にお分かち合いください。それが私の希望であり、また私の商魂と申すものでございます」

玄徳や関羽は、彼の言を聞いて大いに感じ、どうかしてこの人物を自分らの仲間へ留めおきたいと考えたが、張は、
「いやどうも私は臆病者で、とても戦争なさるあなた方の中にいる勇気はございません。なにかまた、お役に立つ時には出てきますから」といって、どうしたらよいか判らず、何処ともなく立ち去ってしまった。

千斤の鉄、百反の織皮(しょくひ)、五百両の金銀、思いがけない軍費を獲て、玄徳以下三人は、
「これぞ天のご援助」
と、いやが上にも、心は奮い立った。

早速、近郷の鍛冶工(かじこう)をよんできて、張飛は、一丈何尺という蛇矛(じゃぼこ)を鍛(う)ってくれと注文し、関羽は重さ何十斤という偃月刀(えんげつとう)を鍛(きた)えさせた。
雑兵の鉄甲、兜(かぶと)、槍、刀などもあわせて誂(あつら)え、それも日ならずしてできてきた。

日月(じつげつ)の旗幟(きし)。
飛龍の幡(ばん)。
鞍(くら)、鏃(やじり)。

軍装はまず整った。

その頃ようやく人数も二百人ばかりになった。
もとより天下に臨むには足りない急仕立ての一小軍でしかなかったが、張飛の教練と、関羽の軍律と、劉玄徳の徳望とは、一卒にまでよく行きわたって、あたかも一箇の体のように、二百の兵は挙手踏足(きょしゅとうそく)、一音に動いた。
「では。――おっ母さん。行って参ります」
劉玄徳は、ある日、武装して母にこう暇を告げた。
兵馬は、粛々、彼の郷土から立って行った。劉玄徳の母は、それを桑の木の下からいつまでも見送っていた。泣くまいとしている眼が湯の泉のようになっていた。

転戦

それより前に、関羽は、玄徳の書をたずさえて、幽州琢郡(ゆうしゅうたくぐん)タクケン出身の大守劉焉(りゅうえん)のもとへ使いしていた。
太守劉焉は、何事かと、関羽を城館に入れて、庁堂(ちょうどう)で接見した。

関羽は、礼をほどこして後、
「太守には今、士を四方に求めらるると聞く。果して然りや」
と、訊ねた。

関羽の威風は、堂々たるものであった。劉焉は、一見して、これ尋常人に非ずと思ったので、その不遜(ふそん)を咎(とが)めず、
「然り。諸所の駅路に高札を建てしめ、士を募(つの)ること急なり。卿(けい)もまた、文書に応じて来たれる有志なるか」と、いった。

そこで関羽は、
「さん候。この国、黄賊の大軍に攻蝕(こうしょく)せらるること久しく、太守の軍、連年に疲敗し続け、各地の民倉は、挙げて賊の毒手にまかせ、百姓蒼生(そうせい)みな国主の無力と、賊の暴状に哭(な)かぬはなしと承る」

あえて、媚びずおそれず、こう正直にいってからさらに重ねて、
「われら恩を久しく領下にうけて、この秋(とき)をむなしく逸人(いつじん)として草廬(そうろ)に閑(かん)を偸(ぬす)むをいさぎよしとせず、同志張飛その他二百余の有為の輩(ともがら)と団結して、劉玄徳を盟主と仰ぎ、太守の軍に入って、いささか報国の義をささげんとする者でござる。太守寛大、よくわれらの義心の兵を加え給うや否や」
と、述べ、終りに、玄徳の手書を出して、一読を乞うた。

劉焉(りゅうえん)は、聞くと、
「この秋(とき)にして、卿ら赤心の豪傑ら、劉焉の微力に援助せんとして訪ねらる、まさに、天祐のことともいうべきである。なんぞ、拒むの理があろうか。城門の塵(ちり)を掃き、客館に旗飾(きしょく)をほどこして、参会の日を待つであろう」
といって、非常な歓びようであった。

「では、何月何日に、ご城下まで兵を率(ひき)いて参らん」と、約束して関羽は立帰ったのであるが、その折、話のついでに、義弟の張飛が、先ごろ、楼桑村の附近や市(いち)の関門などで、事の間違いから、太守の部下たる捕吏や役人などを殺傷したが、どうかその罪はゆるされたいと、一口ことわっておいたのである。

そのせいか、あれっきり、市(いち)の関門からも、捕吏の人数はやって来なかった。いやそれのみか、あらかじめ、太守のほうから命令があったとみえ、劉玄徳以下の三傑に、二百余の郷兵が、突然、楼桑村から琢郡の府城へ向って出発する際には、関門の上に小旗を立て、守備兵や役人は整列して、その行を丁寧に見送った。

それと、眼をみはったのは、玄徳や張飛の顔を見知っている市の雑民たちで、
「やあ、先に行く大将は、蓆売(むしろ)りの劉さんじゃないか」
「そのそばに、馬にのって威張って行くのは、よく猪(いのこ)の肉を売りに出ていた呑んだくれの浪人者だぞ」
「なるほど。張だ、張だ」
「あの肉売りに、わしは酒代の貸しがあるんだが、弱ったなあ」
などと群集のあいだから嘆声をもらして、見送っている酒売りもあった。

義軍はやがて、琢郡の府に到着した。道々、風を慕って、日月の旗下に馳せ参じる者もあったりして、府城の大市へ着いた時は、総勢五百をかぞえられた。
太守は、直ちに、玄徳らの三将を迎えて、その夜は、居館で歓迎の宴を張った。

大将玄徳に会ってみるとまだ年も二十歳台(はたちだい)の青年であるが、寡言沈厚(かげんちんこう)のうちに、どこか大器の風さえうかがえるので、太守劉焉(りゅうえん)は、大いに好遇に努めた。

なお、素姓を問えば、漢室の宗親にして、中山靖王(ちゅうざんせいおう)の裔孫(えいそん)とのことに、
「さもあらん」と、劉焉はうなずくことしきりでなおさら、親しみを改め、左右の関、張両将をあわせて、心から敬(うやま)いもした。

折ふし。
青州大興山(たいこうざん)の附近一帯に跳梁している黄巾賊五万以上といわれる勢力に対して太守劉焉は、家臣の校尉(こうい)鄒靖(すうせい)を将として、大軍を附与し、にわかに、それへ馳け向わせた。

関羽と、張飛は、それを知るとすぐ、玄徳へ向って、「人の歓待は、冷(さ)めやすいものでござる。歓宴長くとどまるべからずです。手はじめの出陣、進んでご加勢にお加わりなさい」と、すすめた。

玄徳は、「自分もそう考えていたところだ。早速、太守へ進言しよう」と、劉焉に会って、その旨を申し出ると劉焉もよろこんで、校尉(こうい)鄒靖(すうせい)の先陣に参加することをゆるした。

玄徳の軍五百余騎は、初陣(ういじん)とあって意気すでに天をのみ、日ならずして大興山の麓へ押しよせてみたところ、賊の五万は、険しい崖に拠(よ)って、利戦を策し、山の襞(ひだ)や谷あいへ、隙間も無いぐらい密集し、長期の陣を備えていた。

時、この地方の雨期をすぎて、すでに初夏の緑草豊かであった。
合戦長きにわたらんか、賊は、地の利を得て、奇襲縦横にふるまい、諸州の黄匪(こうひ)、連絡をとって、いっせいに後路を断ち、征途の味方は重囲のうちに殲滅(せんめつ)の厄(やく)にあわんもはかりがたい。

玄徳は、そう考えたので、
「いかに張飛、関羽。太守劉焉をはじめ、校尉鄒靖も、われらの手なみいかにと、その実力を見んとしておるに違いない。すでに、味方の先鋒たる以上、いたずらに、対峙して、味方に長陣の不利を招くべからずである。自ら進んで、賊の陣近く斬入って、一気に戦いを決せんと思うがどうであろう」

二人へ、計ると、「それこそ、同意」と、すぐ五百余騎を、鳥雲に備え立て、山麓まぢかへ迫ってからにわかに鼓(こ)を鳴らし諸声(もろごえ)あげて決戦を挑んだ。

賊は、山の中腹から、鉄弓を射、弩(ど)をつるべ撃ちして、容易に動かなかったが、
「寄手は、たかのしれた小勢のうえに、国主の正規兵とはみえぬぞ、どこかそこらから狩り集めてきた烏合の雑軍。みなごろしにしてしまえ」

賊の副将鄧茂(とうも)という者、こう号令を下すや否や、柵を開いて、山上から逆落しに騎馬で馳けおりて来、
「やあやあ、稗粕(ひえかす)をなめて生きる、あわれな郷軍の百姓兵ども。官軍の名にまどわされて死骸の堤を築きに来りしか。愚かなる権力の楯につかわるるを止めよ。汝ら、槍をすて、馬を献じ、降を乞うなれば、わが将、大方(だいほう)程遠志(ていえんし)どのに申しあげて、黄巾(こうきん)をたまわり、肉食させて、世を楽しみ、その痩骨(やせぼね)を肥えさすであろう。否といわば、即座に包囲殲滅せん。耳あらば聞け、口あらば答えよ。――いかに、いかに!」と、呼ばわった。

すると、寄手の陣頭より、おうと答えて、劉玄徳、左右に関羽、張飛をしたがえて、白馬を緑野の中央へすすめて来た。

「推参(すいさん)なり、野鼠(やそ)の将」
玄徳は、賊将程遠志の前に駒を止めて、彼のうしろにひしめく黄巾賊の大軍へも轟けとばかりいった。

「天地ひらけて以来、まだ獣族の長く栄えたる例はなし。たとい、一時は人政を乱し、暴力をもって権を奪うも、末路は野鼠の白骨と変るなからん。――醒めよ、われは、日月の幡(はた)を高くかかげ、暗黒の世に光明をもたらし、邪を退(しりぞ)け、正(せい)を明らかにするの義軍、いたずらに立ち向って、生命(いのち)をむだに落すな」

聞くと、程遠志(ていえんし)は声をあげて、大笑し、
「白昼の大寝言、近ごろおもしろい。醒めよとは、うぬらのこと。いで」
と、重さ八十斤と称する青龍刀をひッさげ、駒首おどらせて玄徳へかかってきた。

玄徳はもとより武力の猛将ではない。泥土をあげて、蹄(ひづめ)を後ろへ返す。その間へ、待ちかまえていた張飛が、
「この下郎っ」
叫びながら割って入り、先ごろ鍛(う)たせたばかりの丈余の蛇矛(じゃぼこ)――牙形(きばがた)の大矛(おおぼこ)を先につけた長柄を舞わして、賊将程遠志の兜(かぶと)の鉢金から馬の背骨に至るまで斬り下げた。

「やあ、おのれよくも」
賊の副将、鄧茂(とうも)は、乱れ立つ兵を励ましながら、逃げる玄徳を目がけて追いかけると、関羽が早くも騎馬をよせて、
「未熟者っ、なんぞ死を急ぐ」
虚空に鳴る偃月刀(えんげつとう)の一揮(き)、血けむり呼んで、人馬ともに、関羽の葬(ほうむ)るところとなった。

賊の二将が打たれたので、残余の鼠兵(そへい)は、あわて乱れて、山谷のうちへ逃げこんでゆく。それを、追って打ち、包んでは殲滅(せんめつ)して賊の首を挙げること一万余。降人は容れて、部隊にゆるし、首級は村里の辻に梟(か)けならべて、
――天誅(てんちゅう)はかくの如し。
と、武威をしめした。

「幸先(さいさき)はいいぞ」
張飛は、関羽にいった。
「なあ兄貴、このぶんなら、五十州や百州の賊軍ぐらいは、半歳のまに片づいてしまうだろう。天下はまたたく間に、俺たちの旗幟(きし)によって、日月照々だ。安民楽土の世となるにきまっている。愉快だな。――しかし、戦争がそう早くなくなるのがさびしいが」
「ばかをいえ」
関羽は、首をふった。

「世の中は、そう簡単でないよ。いつも戦(いくさ)はこんな調子だと思うと、大まちがいだぞ」
大興山を後にして、一同はやがて幽州へ凱旋の轡(くつわ)をならべた。

太守劉焉(りゅうえん)は、五百人の楽人に勝利の譜を吹奏させ、城門に旗の列を植えて、自身、凱旋軍を出迎えた。
ところへ。
軍馬の休むいとまもなく、青州の城下から早馬が来て、
「大変です。すぐ援軍のご出馬を乞う」と、ある。
「何事か」と、劉焉が、使いのもたらした牒文(ちょうぶん)をひらいてみると、

当地方ノ黄巾ノ賊徒等(ゾクトラ)県郡ニ蜂起(ホウキ)シテ雲集シ青州ノ城囲マレ終ンヌ落焼(ラクショウ)ノ運命スデニ急ナリタダ友軍ノ来援ヲ待ツ
青州太守(タイシュ)恭景(キョウケイ)

と、あった。
玄徳は、また進んで、
「願わくば行(ゆ)いて援(たす)けん」
と申し出たので、太守劉焉はよろこんで、校尉(こうい)鄒靖(すうせい)の五千余騎に加えて、玄徳の義軍にその先鋒を依嘱した。

時はすでに夏だった。
青州の野についてみると、賊数万の軍は、すべて黄の旗と、八卦(はっけ)の文を証(しるし)とした幡(はん)をかざして、その勢い、天日をも侮(あなど)っていた。

「なにほどのことがあろう」と、玄徳も、先頃の初陣で、難なく勝った手ごころから、五百余騎の先鋒で、当ってみたが、結果は大失敗だった。
一敗地にまみれて、あやうく全滅をまぬがれ、三十里も退いた。

「これはだいぶ強い」
玄徳は、関羽へ計った。
関羽は、
「寡(か)をもって、衆を破るには、兵法によるしかありません」と一策を献じた。

玄徳は、よく人の言を用いた。そこで、総大将の鄒靖(すうせい)の陣へ、使いを立て、謀事をしめしあわせて、作戦を立て直した。
まず、総軍のうち、関羽は約千の兵をひっさげて、右翼となり、張飛も同数の兵力を持って、丘の陰にひそんだ。

本軍の鄒靖(すうせい)と玄徳とは、正面からすすんで、敵の主勢力へ、総攻撃の態を示し、頃あいを計って、わざと、潮のごとく逃げ乱れた。
「追えや」
「討てや」
と、図にのって、賊の大軍は、陣形もなく追撃してきた。

「よしっ」
玄徳が、馬を引き返して、充分誘導してきた敵へ当り始めた時、丘陵の陰や、広野(こうや)の黍(きび)の中から、夕立雲のように湧いて出た関羽、張飛の両軍が、敵の主勢力を、完全にふくろづつみにして、みなごろしにかかった。

太陽は、血に煙った。
草も馬の尾も、血のかからない物はなかった。
「それっ、今だ」
逃げる賊軍を追って、そのまま味方は青州の城下まで迫った。

青州の城兵は、
――援軍来る!
と知ると、城門をひらいて、討って出た。なだれを打って、逃げてきた賊軍は、城下に火を放ち、自分のつけた炎を墓場として、ほとんど、自滅するかのような敗亡を遂げてしまった。

青州の太守恭景(きょうけい)は、
「もし、卿(けい)らの来援がなければ、この城は、すでに今日は賊徒の享楽の宴会場になっていたであろう」
と、人々を重く賞して、三日三晩は、夜も日も、歓呼の楽器と万歳の声にみちあふれていた。

鄒靖は、軍を収めて、
「もはや、お暇(いとま)せん」
と、幽州へ引揚げて行ったが、その際、劉玄徳は、鄒靖に向って、
「ずっと以前――私の少年の頃ですが、郷里の楼桑村に来て、しばらくかくれていた盧植(ろしょく)という人物がありました。私は、その盧植先生について、初めて文を学び、兵法を説き教えられたのです。その後先生はどうしたかと、時おり、思い出すのでしたが、近頃うわさに聞けば、盧植先生は官に仕えて、中郎将(ちゅうろうしょう)に任ぜられ、今では勅令をうけて、遠く広宗(こうそう)の野に戦っていると聞きます。――しかしそこの賊徒は、黄匪(こうひ)の首領張角将軍直属の正規兵だということですから、さだめしご苦戦と察しられるので、これから行って、師弟の旧恩、いささかご加勢してあげたいと思うのです」と、心のうちをもらした。

そして、自分はこれから、広宗の征野へ、旧師の軍を援けにおもむくから、幽州の城下へ帰ったら、どうか、その旨を、悪しからず太守へお伝えねがいたいと、伝言を頼んだ。
もとより義軍であるから、鄒靖も引止めはしない。
「しからば、貴下の手勢のみ率いて、兵糧そのほかの賄(まかない)、心のままにしたまえ」
と、武人らしく、あっさりいって別れた。

討匪(とうひ)将軍の印綬(いんじゅ)をおびて、遠く洛陽(らくよう)の王府から、黄河口の広宗の野(や)に下り、五万の官軍を率いて軍務についていた中郎将盧植(ろしょく)は、
「なに。劉備玄徳(りゅうびげんとく)という者がわしを訪ねてきたと? ……はてな、劉、玄徳、誰だろう」
しきりに首をひねっていたが、まだ思い出せない様子だった。

戦地といっても、さすが漢朝の征旗を奉じてきている軍の本営だけに、将軍の室は、大きな寺院の中央を占め、境内から四門の外郭一帯にかけて、駐屯している兵馬の勢威は物々しいものであった。

「はっ。――確かに、劉備玄徳と仰っしゃって、将軍にお目にかかりたいと申して来ました」
外門から取次いできた一人の兵はそういって、盧将軍の前に、直立の姿勢をとっていた。

「一人か」
「いいえ、五百人も連れてであります」
「五百人」
唖然(あぜん)とした顔つきで、
「じゃあ、その玄徳とやらは、そんなにも自分の手勢をつれて来たのか」
「さようです。関羽、張飛、という二名の部将を従えて、お若いようですが、立派な人物です」

「はてなあ?」
なおさら、思い当らない様子であったが、取次ぎの兵が、
「申し残しました。その仁は、琢(たく)県楼桑村の者で、将軍がそこに隠遁されていた時代に、読み書きのお教えをうけたことがあるとかいっておりました」

「ああ! では蓆(むしろ)売りの劉少年かもしれない。いや、そういえば、あれからもう十年以上も経っておるから、よい若人になっている年頃だろう」

盧植は、にわかに、なつかしく思ったとみえ、すぐ通せと命令した。もちろん、連れている兵は外門にとめ、二人の部将は、内部の廂(ひさし)まで入ることを許してである。

やがて玄徳は通った。
盧植は、ひと目見て、
「おお、やはりお前だったか。変ったのう」と、驚いた目をした。
「先生にも、その後は、赫々(かっかく)と洛陽にご武名の聞え高く、蔭ながらよろこんでおりました」

玄徳は、そういって、盧植の靴の前に退がり、昔に変らぬ師礼をとった。
そして彼は、自分の素志をのべた上、願わくば、旧師の征軍に加わって、朝旗のもとに報国の働きを尽したいといった。

「よく来てくれた。少年時代の小さな師恩を思い出して、わざわざ援軍に来てくれたとは、近頃うれしいことだ。その心もちはすでに朝臣であり、国を愛する士の持つところのものだ。わが軍に参加して、大いに勲功をたててくれ」

玄徳は、参戦をゆるされて、約二ヵ月ほど、盧植の軍を援けていたが、実戦に当ってみると、賊のほうが、三倍も多い大軍を擁しているし、兵の強さも、比較にならないほど、賊のほうが優勢だった。
そのため、官軍のほうが、かえって守勢になり、いたずらに、滞陣の月日ばかり長びいていたのだった。

「軍器は立派だし、服装も剣も華やかだが、洛陽の官兵は、どうも戦意がない。都に残している女房子供のことだの、うまい酒だの、そんなことばかり思い出しているらしい」

張飛は、時々、そんな不平を鳴らして、
「長兄。こんな軍にまじっていると、われわれまでが、だらけてしまう。去って、ほかに毅然と戦う意義のある戦場を見つけましょう」
と、玄徳へいったが、玄徳は、師を歓ばせておきながら、師へ酬いることもなく去る法はないといって、きかなかった。

そのうちに、盧植(ろしょく)のほうから、折入って、軍機にわたる一つの相談がもちかけられた。

盧植がいうには、
――そもそもこの地方は、嶮岨(けんそ)が多くて、守る賊軍に利があり、一気に破ろうとすれば、多大に味方を損じるので、心ならずも、こうして長期戦を張って、長陣をしている理(わけ)であるが、折入って、貴下に頼みたいというのは、賊の総大将張角の弟で張宝(ちょうほう)・張梁(ちょうりょう)のふたりは目下、潁川(えいせん)のほうで暴威をふるっている。

その方面へは、やはり洛陽の朝命をうけて、皇甫嵩(こうほすう)・朱雋(しゅしゅん)の二将軍が、官軍を率いて討伐に向っている。

ここでも勝敗決せず、官軍は苦戦しているが、わが広宗の地よりも、戦うに益が多い。ひとつ貴下の手勢をもって、急に援軍におもむいてもらえまいか。
賊の張梁・張宝の二軍が敗れたりと聞えれば、自然、広宗の賊軍も、戦意を喪失し、退路を断たれることをおそれて、潰走し始めることと思う。

「玄徳殿。行ってもらえまいか」
盧植の相談であった。
「承知しました」
玄徳は、もとより義をもって、旧師を援けにきたので、その旧師の頼みを、すげなく拒(こば)む気にはなれなかった。

即刻、軍旅の支度をした。
手勢五百に、盧植からつけてくれた千余の兵を加え、総勢千五百ばかりで、潁川(えいせん)の地へ急いだ。

陣地へ着くと、さっそく官軍の将、朱雋(しゅしゅん)に会って、盧植の牒文を示し、
「お手伝いに参った」と挨拶すると、
「ははあ。何処で雇(やと)われた雑軍だな」と、朱雋は、しごく冷淡な応対だった。
そして、玄徳へ、
「まあ、せいぜい働きたまえ。軍功さえ立てれば、正規の官軍に編入されもするし、貴公らにも、戦後、何か地方の小吏ぐらいな役目は仰せつかるから」
などともいった。

張飛は、
「ばかにしておる」
と怒ったが、玄徳や関羽でなだめて、前線の陣地へ出た。
食糧でも、軍務でも、また応対でも、冷遇はするが、与えられた戦場は、もっとも強力な敵の正面で、官軍の兵が、手をやいているところだ。

地勢を見るに、ここは広宗地方とちがって、いちめんの原野と湖沼だった。
敵は、折からの、背丈の高い夏草や野黍(のきび)のあいだに、虫のようにかくれて、時々、猛烈な奇襲をしてきた。

「さらば。一策がある」
玄徳は、関羽と張飛に、自分の考えを告げてみた。
「名案です。長兄は、そもそも、いつのまにそんなに、孫呉の兵を会得(えとく)しておられたんですか」
と、二人とも感心した。

その晩、二更(こう)の頃。
一部の兵力を、迂回させて、敵のうしろに廻し、張飛、関羽らは、真っ暗な野を這って、敵陣へ近づいた。

そして、用意の物に、一斉に火を点じると、
「わあっ」
と、鬨(とき)の声をあげて、炎の波のように、攻めこんだ。
かねて、兵一名に、十把(ぱ)ずつの松明(たいまつ)を負わせ、それに火をつけて、なだれこんだのである。

寝ごみを衝かれ、不意を襲われて、右往左往、あわて廻る敵陣の中へ、投げ松明の光は、花火のように舞い飛んだ。
草は燃え、兵舎は焼け、逃げくずれる賊兵の軍衣にも、火が付いていないのはなかった。

すると彼方から、一彪(ぴょう)の軍馬が、燃えさかる草の火を蹴って進んできた。見れば、全軍みな紅(くれない)の旗をさし、真っ先に立った一名の英雄も、兜(かぶと)、鎧(よろい)、剣装、馬鞍、すべて火よりも赤い姿をしていた。

「やよ、それに来る豪傑。貴軍はそも、敵か味方か」
玄徳のそばから大音で、関羽が彼方へ向って云った。
先でも、玄徳たちを、
「官軍か賊軍か?」と疑っていたように、ぴたと一軍の前進を停めて、
「これは洛陽より南下した五千騎の官軍である。汝らこそ、黄匪に非ずや」
と、怒鳴り返してきた。

聞くと、玄徳は左将軍関羽、右将軍張飛だけを両側に従えて、兵を後方に残したまま数百歩駒をすすめ、
「戦場とて、失礼をいたした。それがしはタクケン出身楼桑村の草莽(そうもう)より起って、いささか奉公を志し、討賊の戦場に参加しておる義軍の将、劉備玄徳という者です。それにおいである豪傑は、そも何ぴとなりや。願わくばご尊名をうかがいたい」
いうと、紅の旗、紅の鎧、紅の鞍にまたがっている人物は、玄徳の会釈を、馬上でうけながら微笑をたたえ、「ごていねいな挨拶。それへ参って申さん」と、赤夜叉(あかやしゃ)の如く、すべて赤く鎧(よろ)った旗本七騎につつまれて、玄徳の間近まで馬をすすめて来た。

近々と、その人物を見れば。
年はまだ若い。肉薄く色白く、細眼長髯(さいがんちょうぜん)、胆量(たんりょう)人にこえ、その眸には、智謀はかり知れないものが見えた。
声静かに、名乗っていう。

「われは沛国ショウ郡(はいこくしょうぐん)の生れで、曹操(そうそう)字(あざな)は孟徳(もうとく)、小字(こあざな)は阿瞞(あまん)、また吉利(きつり)ともいう者です。すなわち漢の相国(しょうこく)曹参(そうさん)より二十四代の後胤(こういん)にして、大鴻臚(たいこうろ)曹崇(そうすう)が嫡男なり。洛陽にあっては、官騎(かんき)都尉(とい)に封ぜられ、今、朝命によって、五千余騎にて馳せ来り、幸いにも、貴軍の火攻めの計に乗じて、逃ぐる賊を討ち、賊徒の首を討つことその数を知らないほどです。――ひとつお互いに両軍声をあわせて、天下の泰平を一日もはやく地上へ呼ぶため、凱歌をあげましょう」

「結構です。では、曹操閣下が矛(ほこ)をあげて、両軍へ発声の指揮をしてください」
玄徳が謙遜していうと、
「いやそれは違う。こよいの勝ち軍(いくさ)はひとえに貴軍の謀略と働きにあるのですから、玄徳殿が音頭をとるべきです」と、曹操も譲りあう。
「では、一緒に、指揮の矛を揚げましょう」
「なるほど、それならば」
と、曹操も従って、両将は両軍のあいだに轡(くつわ)をならべ、そして三度、合図の声をあわせて野をゆるがした。

野火は燃えひろがるばかりで賊徒らの住む尺地も余さなかった。賊の大軍は、ほとんど、秋風に舞う木の葉のように四散した。
「愉快ですな」
曹操は、かえりみて云った。

兵をまとめて、両軍引揚げの先頭に立ちながら、玄徳は、彼と馬を並べ、彼と親しく話すかなりな時間を得た。
彼の最前の名乗りは、あながち鬼面(きめん)人を脅(おど)すものではなかった。玄徳は正直に、彼の人物に尊敬を払った。晋文匡扶(しんぶんきょうふ)の才なきを笑い、趙高王莽(ちょうこうおうもう)の計策(はかり)なきを嘲(あざけ)って時々、自らの才を誇る風はあるが、兵法は呉子孫子をそらんじ、学識は孔孟の遠き弟子をもって任じ、話せば話すほど、深みもあり広さもある人物と思われた。

それにひきかえて、本軍の総大将朱雋(しゅしゅん)は、かえって玄徳の武功をよろこばないのみか、玄徳が戻ってくると、すぐこう命令した。

「せっかく、潁川(えいせん)にまとまっていた賊軍を四散させてしまったので、必ず彼らは、大興山の友軍や広宗の張角軍と合体して、盧植(ろしょく)将軍のほうを、今度はうんと悩ますにちがいない。――貴公はすぐ広宗へ引っ返して、再び、盧植軍に加勢してやりたまえ。今夜だけ、馬を休めたら、すぐ発足するがよかろう」

檻車(かんしゃ)

義はあっても、官爵(かんしゃく)はない。勇はあっても、官旗を持たない。そのために玄徳の軍は、どこまでも、私兵としか扱われなかった。

よく戦ってくれたと、恩賞の沙汰か、ねぎらいの言葉でもあるかと思いのほか、”休むいとまもなく、ここはもうよいから、広宗の地方へ転戦して、盧将軍を援(たす)けにゆけ”
という朱雋(しゅしゅん)の命令には、玄徳は素直な質(たち)なので、承知して戻ったが、関羽も、張飛も、それを聞くと、
「え。すぐにここを立てというんですか」
と、むっとした顔色だった。ことに張飛は、
「怪しからん沙汰だ。いかに官軍の大将だからといって、そんな命令を、おうけしてくる法があるものか。昨夜から悪戦苦闘してくれた部下にだって、気の毒で、そんなことがいえるものか」と、激昂し、「長兄は、大人しいもんだから、洛陽の都会人などの眼から見るとなめられやすいのだ。拙者がかけ合ってくる」
と、剣をつかんで、朱雋の本営へ出かけそうにしたので、玄徳よりは、同じ不快をこらえている関羽が、
「まあ待て」と、極力おさえた。

「ここで、腹を立てたら、折角、官軍へ協力した意義も武功も、みな水泡に帰してしまう。都会人て奴は、元来、わがままで思い上がっているものだ。しかし、黙ってわれわれが国事に尽していれば、いつか誠意は天聴にも達するだろう。眼前の利欲に怒るのは小人の業(わざ)だ。われわれは、もっと高い理想に向って起つはずじゃないか」

「でも癪(しゃく)にさわる」
「感情に負けるな」
「無礼なやつだ」
「分った。分った。もうそれでいいだろう」

ようやく宥(なだ)めて、
「劉兄。お腹も立ちましょうが、戦場も世の中の一部です。広い世の中としてみればこんなことはありがちでしょう。即刻、この地を引揚げましょう」
ついでに関羽は、玄徳の憂鬱もそういって慰めた。

玄徳はもとより、そう腹も立っていない。こらえるとか、堪忍とか、二人はいっているが、彼自身は、生来の性質が微温的にできているのか、実際、朱雋の命令にしてもそう無礼とも無理とも思えないし、怒るほどに、気色を害されてもいなかったのである。

兵には、一睡させて、せめて食糧もゆっくりとらせて、夜半から玄徳は、そこの陣地を引払った。

きのうは西に戦い。
きょうは東へ。

毎日、五百の手勢と、行軍をつづけていても、私兵のあじけなさを、しみじみ思わずにいられなかった。
部落を通れば、土民までが馬鹿にする。――その土民らを賊の虐圧(ぎゃくあつ)と、悪政の下から救って、安心楽土の幸福な民としてやろうというこの軍の精神であるのに――そのみすぼらしい雑軍的な装備を見て、
「なんじゃ。官軍でもなし、黄巾賊でもないのが、ぞろぞろ通りよる」
などと、陽なたに手をかざし合って、嘲弄(ちようろう)するような眼をあつめながら見物していた。

けれど、先頭の玄徳、張飛、関羽の三人だけは、人目をひいた。威風が道を払った。土民らの中には土下座して拝する者もあった。
拝されても、嘲弄されても、玄徳はいずれにせよ、気にかけなかった。自分が畑に働いていた頃の気持をもって、土民の気持を理解しているからだった。

馬を並べてくる関羽と張飛とはまだ朱雋(しゅしゅん)の無礼を思い出して、時々、腹が立ってくるものとみえ、官軍の風紀や、洛陽の都人士の軽薄を、しきりに声を大にして罵(ののし)っていた。

「およそ嫌なものは、官爵(かんしゃく)を誇って、朝廷のご威光を、自分の偉さみたいに、思い上がっている奴だ。天下の乱れるのは、天下の乱れに非ず、官の廃頽(たいはい)によるというが、洛陽育ちの役人や将軍のうちには、あんなのが沢山いるだろうて」
と、関羽がいえば、
「そうさ。俺はよッぽど、朱雋の面へ、ヘドを吐きかけてやろうと思ったよ」と張飛もいう。

「はははは。貴公のヘドをかけられたら、朱雋も驚いたろうな。しかし彼一人が官僚臭の鼻もちならぬ人間というわけではない。漢室の廟堂(びょうどう)そのものが腐敗しているのだ。彼は、その中に棲息(せいそく)している時代人だから、その悪弊を持っているに過ぎない」

「それゃあ分っているが、とにかく俺は、目前の事実を憎むよ」
「いくら黄匪(こうひ)を討伐しても、中央の悪風を粛正しなければ、ほんとのよい時代はやって来まいな」

「黄巾の賊はなお討つに易し。廟堂の鼠臣(そしん)はついに追うも難し――か」
「その通りだ」
「考えれば考えるほど、俺たちの理想は遠い――」
道を眺め、空を仰ぎ、両雄は嘆じ合っていた。

少し前へ立って、馬を進めていた玄徳は、二人の声高な話を先刻から後ろ耳で聞いていたが、その時、振りかえって、
「いやいや両人、そう一概にいってしまったものではない。洛陽の将軍のうちにも、立派な人物は乏しくない」と、いった。

玄徳は、言葉をつづけて、
「たとえば先頃、野火の戦野で出会って挨拶を交わした――赤備え(あかぞなえ)の一軍の大将、孟徳曹操(もうとくそうそう)などという人物は、まだ若いが、人品(じんぴん)といい、言語態度といい、まことに見あげたものだった。叡智の才を、洛陽の文化と、武勇とに磨いて、一個の人格に飽和させているところ、彼など真に官軍の将軍といって恥かしからぬ者であろう。ああいう武将というものは、やはり郷軍や地方の草莽(そうもう)のなかには見当らないと思うな」と、賞(ほ)めたたえた。

それには、張飛も関羽も、同感であったが、浪人の通有性として官軍とか官僚とかいうと、まずその人物の真価をみるより先に、その色や臭いを嫌悪してかかるので、玄徳にそういわれるまでは、特に、曹操に対しても、感服する気にはなれなかったのである。

「や。旗が見える」
そのうちに、彼らの部下は、こういって指さし合った。玄徳は、馬を止めて、
「なにが来るのだろうか」と、関羽をかえりみた。

関羽は、手をかざして、道の前方数十町の先を、眺めていた。そこは山陰になって、山と山の間へ道がうねっているので、太陽の光もかげり、何やら一団の人間と旗とが、こっちへさして来るのは分るが官軍やら黄巾賊の兵やら――また、地方を浮浪している雑軍やら、見当がつかなかった。

だが、次第に近づくに従って、ようやく旗幟(きし)がはっきり分った。関羽が、それと答えた時には、従う兵らも口々に言い交わしていた。
「朝旗をたてている」
「アア。官軍だ」
「三百人ばかりの官軍の隊」
「だが、おかしいぞ、熊でも捕まえて入れてくるのか、檻車(かんしゃ)をひいて来るじゃないか」

大きな鉄格子の檻(おり)である。車がついているのでロバにひかせることができる。まわりには、槍や棒を持った官兵が、怖い目をしながら警固してくる。

その前に百名。
その後ろに約百名。

檻車を真ん中にして、七旒(りゅう)の朝旗は山風にひるがえっていた。そして、檻車の中に、揺られてくるのは、熊でも豹(ひょう)でもなかった。膝を抱いて、天日に面(おもて)を俯(ふ)せている、あわれなる人間であった。

ばらばらっと、先頭から、一名の隊将と、一隊の兵が、馳け抜けてきて、玄徳の一行を、頭から咎(とが)めた。

「こらっ、待てっ」というふうにである。
張飛も、ぱっと、玄徳の前へ馬を躍らせて、万一をかばいながら、
「なんだっ、虫けら」と、いい返した。

いわずともよい言葉であったが、潁川(えいせん)以来、とかく官兵の空威(からい)ばりに、業腹(ごうはら)の煮えていたところなので、つい口をついて出てしまったのである。

石は石を打って、火を発した。
「なんだと、官旗に対して、虫けらといったな」
「礼を知るをもって人倫(じんりん)の始まりという。礼儀をわきまえん奴は、虫けらも同然だ」

「だまれ、われわれは、洛陽の勅使、左豊卿(さほうきょう)の直属の軍だ。旗を見よ。朝旗が見えんか」

「王城の直軍とあれば、なおさらのことである。俺たちも、武勇奉公を任じる軍人だ。私軍といえど、この旗に対し、こらっ待てとはなんだ。礼をもって問えば、こちらも礼をもって答えてやる。出直してこい」

丈八の蛇矛を斜(しゃ)に構えて、かっとにらみつけた。
官兵はちぢみ上がったものの、虚勢を張ったてまえ、退きもならず、生唾(なまつば)をのんでいた。玄徳は、眼じらせで、関羽にこの場を扱うように促した。

関羽は、心得て、
「あいや、これは潁川(えいせん)の朱雋(しゅしゅん)・皇甫嵩(こうほすう)の両軍に参加して、これより広宗へ引っ返して参るタクケン出身の劉玄徳の手勢でござる。言葉の行きちがい、この漢(おとこ)の短慮は許したまえ。――ついてはまた、貴下の軍は、これより何処へ参らるるか。そして、あれなる檻車(かんしゃ)にある人間は、賊将の張角でも生擒(いけど)ってこられたのであるか」

詫びるところは詫び、糺(ただ)すところは筋目をただして、質問した。
官兵の隊将は、それに、ほっとした顔つきを見せた。張飛の暴言も薬になったとみえ、今度は丁寧に、
「いやいや、あれなる檻車に押しこめてきた罪人は、先頃まで、広宗の征野にあって、官軍一方の将として、洛陽より派遣せられていた中郎将盧植(ちゅうろうしょうろしょく)でござる。」

「えっ、盧植将軍ですって」
玄徳は、思わず、驚きの声を放った。

「されば、吾々には詳しいことも分らぬが、今度勅命にて下られた左豊卿(さほうきょう)が、各地の軍状を視察中、盧植の軍務ぶりに不届きありと奏されたため、急に盧植の官職を褫奪(ちだつ)され、これよりその身柄を、一囚人として、都へ差し立てて行く途中なので――」
と語った。

玄徳も、関羽も、張飛も、
「嘘のような……」と、茫然たる面を見あわせたまま、しばしいう言葉を知らなかった。
玄徳はやがて、
「実は、盧植将軍は、自分の旧師にあたるお人なので、ぜひともひと目、お別れをお告げ申したいが、なんとか許してもらえまいか」と切に頼んだ。

「ははあ。では、罪人盧植は、貴公の旧師にあたる者か。それは定めし、ひと目でも会いたかろうな」

守護の隊将は、玄徳の切な願いを、肯(き)くともなく、肯かぬともなく、すこぶるあいまいに口を濁して、「許してもよいが、公の役目のてまえもあるしな」と、意味ありげに呟いた。

関羽は、玄徳の袖をひいて、彼は賄賂(わいろ)を求めているにちがいない。貧しい軍費ではあるが、幾分かをさいて、彼に与えるしかありますまいといった。

張飛は、それを小耳にはさむと、怪しからぬことである。そんなことをしては癖になる。もしきかなければ、武力に訴えて、盧将軍の檻車へ迫り、ご対面なさるがよい。自分が引受けて、警固の奴らは近寄せぬからといったが、玄徳は、
「いやいや、かりそめにも、朝廷の旗を奉じている兵や役人へ向って、さような暴行はなすべきでない。といって、師弟の情、このまま盧将軍と相見ずに別れるにも忍びないから――」
といって、なにがしかの銀を、軍費のうちから出させて、関羽の手からそっと、守護の隊将へ手渡し、
「ひとつ、あなたのお力で」
と、折入っていうと、賄賂(わいろ)の効き目は、手のひらを返したようにきいて、隊将は立ち戻って、檻車を停(と)め、
「しばらく、休め」 と、自分の率いている官兵に号令した。

そしてわざと、彼らは見て見ぬふりして、路傍に槍を組んで休憩していた。
玄徳は、騎をおりて、その間に、檻車のそばへ馳け寄り、頑丈な鉄格子へすがりついて、
「先生っ。先生っ。玄徳でございます。いったい、このお姿は、どうなされたことでござりますぞ」
と、嘆いた。

膝を曲げて、暗澹(あんたん)と、顔を埋めたまま、檻車の中に背をまるくしていた盧植は、その声に、はっと眼を向けたが、
「おうっ」
と、それこそ、さながら野獣のように、鉄格子のそばへ、跳びついてきて、
「玄徳か……」と、舌をつらせて顫(わなな)いた。

「いい所で会った。玄徳、聞いてくれ」
盧植は、無念な涙に、眼も顔もいっぱいに曇らせながらいう。
「実は、こうだ。――先頃、貴公がわしの陣を去って、潁川(えいせん)のほうへ立ってから間もなく、勅使左豊という者が、軍監として戦況の検分に来たが、世事に疎(うと)いわしは、陣中であるし、天子の使いとして、彼を迎えるに、あまりに真面目すぎて、他の将軍連のように、左豊に献物(けんもつ)を贈らなかった。……するとあつかましい左豊は、我に賄賂(まいない)をあたえよと、自分の口から求めてきたが、陣中にある金銀は、みなこれ官の公金にして、兵器戦備の費(つい)えにする物、ほかに私財とてはなし。ことに、軍中なれば、吏に贈る財物など、何であろうかと、わしはまた、真っ正直に断った」

「……なるほど」
「すると、左豊は、盧植はわれを恥かしめたりと、ひどく恨んで帰ったそうだが、間もなく、身に覚えない罪名のもとに、軍職を褫奪(ちだつ)されてこんな浅ましい姿をさらして、都へ差立てられる身とはなってしもうた。……今思えば、わしもあまり一徹であったが、洛陽の顕官どもが、私利私腹のみ肥やして、君も思わず、民をかえりみず、ただ一身の栄利に汲々(きゅうきゅう)としておる状(さま)は、想像のほかだ。実に嘆かわしい。こんなことでは、後漢の霊帝の御世も、おそらく長くはあるまい。……ああどうなりゆく世の中やら」
と、盧植は、身の不幸を悲しむよりも、さすがに、より以上、上下乱脈の世相の果てを、痛哭(つうこく)するのであった。

慰めようにも慰めることばもなく、鉄格子をへだてた盧植(ろしょく)の手を握りしめて、玄徳も共にただ悲嘆の涙にくれていたが、
「いや先生、ご胸中はお察しいたしますが、いかに世が末になっても、罪なき者が罰せられて、悪人や奸吏がほしいままに、栄耀(えいよう)を全(まっと)うすることはありません。日月も雲におおわれ、山容も、烟霧(えんむ)に真の象(かたち)を現さない時もあります。そのうちに、ご冤罪(えんざい)は拭(ぬぐ)われて、また聖代に祝しあう日もありましょう。どうか、時節をお待ちください。お体を大切に、恥をしのんで、じっとここは、ご辛抱ください」
と励ました。

「ありがとう」と、盧植もわれにかえって、「思わぬ所で、思わぬ人に会ったため、つい心もゆるみ、不覚な涙を見せてしもうた。……わしなどはすでに老朽の身だが、頼むのは、貴公たち将来のある青年へだ。……どうか億生(おくしょう)の民草のために、頼むぞ劉備」

「やります。先生」
「ああしかし」
「何ですか」

「わしの如き、老年になっても、まだ佞人(ねいじん)の策におち、檻車に生き恥をさらされるような不覚をするのだ。汝(おこと)らはことに年も若いし、世の経験に浅い身だ。くれぐれも、平時の処世に細心でなければ危ないぞ。戦を覚悟の戦場よりも、心をゆるめがちの平時のほうが、どれほど危険が多いか知れない」

「ご訓誡、肝(きも)に銘じておきます」
「では、あまり長くなっても、また迷惑がかかるといけないから――」
と、盧植が、早く立去れかしと、玄徳を眼で急(せ)き立てていると、それまで、檻車の横にたたずんでいた張飛が、突然、
「やあ長兄。罪もなき恩師が、獄府へ引かれて行くのを、このまま見過すという法があろうか。今の話を聞くにつけ、また先頃からの鬱憤(うっぷん)もかさんでおる。もはや張飛の堪忍の緒はきれた。――守護の官兵どもを、みなごろしにして、檻車を奪い盧植様をお助けしようではないか」
と、大声でいい放ち、一方の関羽をかえりみて、
「兄貴、どうだ」と、相談した。

耳こすりや、眼まぜでしめし合わすのではない。天地へ向って怒鳴るのである。いくら背中を向けて見ぬ振りをしている官兵でも、それには総立ちになって、色めかざるをえない。しかし、張飛の眼中には、蠅が舞いだした程にもなく、
「なにを黙っておるのか。長兄らは、官兵が怖いのか。義を見て為(な)さざるは勇なきなり。よしっ、それでは、俺ひとりでやる。なんの、こんな虫籠のような檻車一つ」

いきなり張飛は、その鉄格子に手をかけて、猛虎のように、ゆすぶりだした。
いつもあまり大きな声を出さないし、めったに顔いろを変えない玄徳が、それを見ると、
「張飛! 何をするかッ」と、大喝して、「かりそめにも、朝命の科人(とがにん)へ、汝、一野夫の身として、何をなさんとするか。師弟の情は忍び難いが、なお、私情に過ぎない。いやしくも天子の命とあらば、地を噛んでも伏すべきである。世々の道に反(そむ)かずということは、そもそも、われらの軍律の第一則であった。強(た)って、乱暴を働くにおいては、天子の臣に代り、また、わが軍律に照らして、劉玄徳が、まず汝の首を刎(は)ねん。――いかに張飛、なおさわぐや」
と、かの名剣の柄をにぎって、眦(まなじり)を紅に裂き、この人にしてこの血相があるかと疑われるばかりな声で叱りつけた。

――檻車は遠く去った。
叱られて、思いとどまった張飛は、後ろの山のほうを向いて、見ていなかった。
玄徳は、立っていた。

「…………」
黙然と、凝視して、遠くなり行く師の檻車を、暗涙の中に見送っていた。
「……さ。参りましょう」
関羽は、促(うなが)して、馬を寄せた。

玄徳は、黙々と、騎上の人になったが、盧植の運命の急変が、よほど精神にこたえたとみえ、
「……ああ」と、なお嘆息しては、振向いていた。

張飛は、つまらない顔していた。彼にとっては、正しい義憤としてやったことが、計らずも玄徳の怒りを買い、義盟の血をすすり合ってから初めてのような叱られ方をした。
官兵どもは、それを見て、いい気味だというような嘲笑を浴びせた。張飛たるもの、腐らずにいられなかった。

「いけねえや、どうも家の大将は、すこし安物の孔子(こうし)にかぶれている気味だて」
舌打ちしながら、彼も黙りこんだまま、悄気(しょげ)かえった姿を、馬にまかせていた。

山峡の道を過ぎて、二州のわかれ道へきた。
関羽は、駒を止めて、
「玄徳様」と、呼びかけた。

「これから南へ行けば広宗。北へさしてゆけば、郷里タクケン出身の方角へ近づきます。いずれを選びますか」
「もとより、盧植先生が囚(とら)われの身となって、洛陽へ送られてしまったからには、義をもってそこへ援軍にゆく意味ももうなくなった。ひとまず、タクケン出身へ帰ろうよ」

「そうしますか」
「うム」
「それがしも、先刻からいろいろ考えていたのですが、どうも、残念ながら、一時郷里へ退くしかないであろう――と思っていたので」

「転戦、また転戦。――なんの功名ももたらさず、郷家に待つ母上にも、なんとなく、会わせる顔もない心地がするが……帰ろうよ、タクケン出身へ」

「はっ。――では」
と、関羽は、騎首をめぐらして、後からつづいて来る五百余の手兵へ、
「北へ、北へ!」
と、指して歩行の号令をかけ、そしてまた黙々と、歩みつづけた。

「あぁ――、あ、あ」
張飛は、大あくびして、
「いったい、なんのために、俺たちは戦ったんだい。ちっともわけが分らない。――こうなると一刻もはやく、タクケン出身の城内へ帰って、市の酒屋で久しぶりに、猪(いのこ)の股(もも)でもかじりながら、うまい酒でも飲みたいものだ」と、いった。

関羽は、苦い顔して、
「おいおい、兵隊のいうようなことをいうな。一方の将として」
「だって、俺は、ほんとのことをいっているんだ。嘘ではない」
「貴様からして、そんなことをいったら、軍紀がゆるむじゃないか」
「軍紀のゆるみだしたのは、俺のせいじゃない。官軍官軍と、なんでも、官軍とさえいえば、意気地なく恐がる人間のせいだろ」
不平満々なのである。

その不平な気もちは、玄徳にも分っていた。玄徳もまた、不平であったからだ。そしてひと頃の張り切っていた壮志(そうし)のゆるみをどうしようもなかった。彼は、女々(めめ)しく郷里の母を想い出し、また、思うともなくい鴻芙蓉(こうふよう)の麗しい眉や眼などを、人知れず胸の奥所(おくが)に描いたりして、なんとなく士気の沮喪(そそう)した軍旅の虚無(きょむ)と不平をなぐさめていた。
すると、突然、山崩れでもしたように、一方の山岳で、鬨(とき)の声が聞えた。

「何事か」
玄徳は聞き耳たてていたが、四山にこだまする銅鑼(どら)、兵鼓(へいこ)の響きに、
「張飛。物見せよ」と、すぐ命じた。
「心得た」
と張飛は駒を飛ばして、山のほうへ向って行ったが、しばらくすると戻ってきて、
「広宗の方面から逃げくずれて来る官軍を、黄巾(こうきん)の総帥(そうすい)張角(ちょうかく)の軍が、大賢良師(たいけんりょうし)と書いた旗を進め、勢いに乗って、追撃してくるのでござる」と、報告した。

玄徳は、驚いて、
「では、広宗の官軍は、総敗北となったのか。――罪なき盧植将軍を、檻車に囚えて、洛陽へ差し立てたりなどしたために、たちまち、官軍は統制を失って、賊にその虚をつかれたのであろう」
と、嘆じた。

張飛は、むしろ小気味よげに、
「いや、そればかりでなく、官軍の士風そのものが、長い平和になれ、気弱にながれ、思い上がっているからだ」と、関羽へいった。

関羽は、それに答えず、
「長兄。どうしますか」
と玄徳へ計った。

玄徳は、ためらいなく、
「皇室を重んじ、秩序をみだす賊子を討ち、民の安寧(あんねい)を護らんとは、われわれの初めからの鉄則である。官の士風や軍紀をつかさどる者に、面白からぬ人物があるからというて、官軍そのものが潰滅するのを、拱手傍観(きょうしゅぼうかん)していてもよいものではない」
と、即座に、援軍に馳せつけて、賊の追撃を、山路で中断した。そしてさんざんにこれを悩ましたり、また、奇策をめぐらして、張角大方師の本軍まで攪乱した上、勢いを挽回した官軍と合体して、五十里あまりも賊軍を追って引揚げた。

広宗から敗走してきた官軍の大将は、董卓(とうたく)という将軍だった。
からくも、総敗北を盛返して、ほっと一息つくと、将軍は、幕僚にたずねた。

「いったい、かの山嶮で、不意にわが軍へ加勢し、賊の後方を攪乱した軍隊は、いずれ味方には相違あるまいが、どこの部隊に属する将士か」

「さあ。どこの隊でしょう」
「汝らも知らんのか」
「誰もわきまえぬようです」
「しからば、その部将に会って、自身訊ねてみよう。これへ呼んでこい」

幕僚は、直ちに、玄徳たちへ董卓の意をつたえた。
玄徳は、左将(さしょう)関羽、右将(うしょう)張飛を従えて、董卓の面前へ進んだ。

董卓は、椅子を与える前に、三名の姓名をたずねて、
「洛陽の王軍に、卿(けい)らのごとき勇将があることは、まだ寡聞(かぶん)にして聞かなかったが、いったい諸君は、なんという官職に就かれておるのか」と、身分を糺(ただ)した。

玄徳は、無爵無官の身をむしろ誇るように、自分らは、正規の官軍ではなく、天下万民のために、大志を奮い起して立った一地方の義軍であると答えた。

「……ふうむ。すると、タクケン出身の楼桑村から出た私兵か。つまり雑軍というわけだな」
董卓の応対ぶりは、言葉つきからして違ってきた。露骨な軽蔑を鼻先に見せていうのだった。しかも、
「――ああそうか。じゃあ我が軍に従(つ)いて、大いに働くがよいさ。給料や手当は、いずれ沙汰させるからな」
と同席するさえ、自分の沽券(こけん)にかかわるように、董卓はいうとすぐ帷幕(いばく)のうちへ隠れてしまった。

官軍にとっては、大功を立てたのだ。董卓にとっては、生命の親だといってもよいのだ。
然るに!
何ぞ、遇(ぐう)するの、無礼。
士を遇する道を知らぬにも程がある。

「…………」
玄徳も、張飛と関羽も、董卓のうしろ姿を見送ったまま、茫然としていた。
「うぬっ」
憤然と、張飛は、彼のかくれた幕(とばり)の奥へ、躍り入ろうとした。

獅子のように、髪を立てて。
そして剣を手に。
「あっ、何処へ行く」
玄徳は、驚いて、張飛のうしろから組み止めながら、
「こらっ、また、わるい短慮を出すか」と、叱った。
「でも。でも」
張飛は、怒りやまなかった。

「――ちッ、畜生っ。官位がなんだっ。官職がない者は、人間でないように思ってやがる。馬鹿野郎ッ。民力があっての官位だぞ。賊軍にさえ、蹴ちらされて、逃げまわって来やがったくせに」

「これッ、鎮まらんか」
「離してくれ」
「離さん。関羽関羽。なぜ見ているか、一緒に、張飛を止めてくれい」
「いや関羽、止めてくれるな。おれはもう、堪忍の緒(お)を切った。――功を立てて恩賞もないのは、まだ我慢もするが、なんだ、あの軽蔑したあいさつは。――人を雑軍かとぬかしおった。私兵かと、鼻であしらいやがった。――離してくれ、董卓の素ッ首を、この蛇矛(じゃぼこ)で一太刀にかッ飛ばして見せるから」

「待て。……まあ待て。……腹が立つのは、貴様ばかりではない。だが、小人の小人ぶりに、いちいち腹を立てていたひには、とても大事はなせぬぞ。天下、小人に満ちいる時だ」

玄徳は、抱き止めたまま、声をしぼって諭(さと)した。
「しかし、なんであろうと、董卓は皇室の武臣である。朝臣を弑逆(しいぎゃく)すれば、理非にかかわらず、叛逆の賊子といわれねばならぬ。それに、董卓には、この大軍があるのだ。われわれも共に、ここで斬り死しなければならぬ。聞きわけてくれ張飛。われわれは、犬死するために、起ったのではあるまいが」

「……ち、ち、ちく生ッ」
張飛は、床を、大きく靴で踏み鳴らして、男泣きに、声をあげて泣いた。
「口惜しい」
彼は、坐りこんで、まだ泣いていた。この忍耐をしなければ、世のために戦えないのか、義を唱えても、遂に成すことはできないのかと考えると悲しくなってくるのだった。

「さ。外へ出よう」
赤ン坊をあやすように、玄徳と関羽の二人して、彼を、左右から抱き起こした。
そして、その夜、「こんな所に長居していると、いつまた、張飛が虫を起さないとも限らないから」と、董卓の陣を去って、手兵五百と共に、月下の広野を、蕭々(しょうしょう)と、風を負って歩いた。

わびしき雑軍。
そして官職のない将僚。

一軍の漂泊(さすらい)は、こうして再び続いた。夜ごとに、月は白く小さく、広野は果てなくまた露が深かった。
渡り鳥が、大陸をゆく。
もう秋なのだ。
一度は郷里のタクケン出身へ帰ろうとしたが、それも残念でならないし、あまりに無意義――という関羽の意見に、張飛も、将来は何事も我慢しようと同意したので、玄徳を先頭にしたこの渡り鳥にも似た一軍は、また、以前の潁川(えいせん)地方にある黄匪討伐軍本部――朱雋(しゅしゅん)の陣地へと志して行ったのであった。

秋風陣(しゅうふうじん)

潁川の地へ行きついてみると、そこにはすでに官軍の一部隊しか残っていなかった。大将軍の朱雋(しゅしゅん)も皇甫嵩(こうほすう)も、賊軍を追いせばめて、遠く河南の曲陽や宛城(えんじょう)方面へ移駐しているとのことであった。

「さしも旺(さかん)だった黄巾賊の勢力も、洛陽の派遣軍のために、次第に各地で討伐され、そろそろ自壊しはじめたようですな」

関羽がいうと、
「つまらない事になった」
と、張飛はしきりと、今のうちに功を立てねば、いつの時か風雲に乗ぜんと、焦心(あせ)るのであった。

「――義軍なんぞ小功を思わん。義胆(ぎたん)なんぞ風雲を要せん」
劉玄徳は、独りいった。
雁(かり)の列のように、漂泊の小軍隊はまた、南へ向って、旅をつづけた。
黄河を渡った。
兵たちは、馬に水を飼った。

玄徳は、黄いろい大河に眼をやると、憶(おも)いを深くして、
「ああ、悠久なる哉(かな)」
と、呟いた。

四、五年前に見た黄河もこの通りだった。おそらく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだろう。
天地の悠久を思うと、人間の一瞬がはかなく感じられた。小功は思わないが、しきりと、生きている間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする祈願が念じられてくる。

「この畔(ほとり)で、半日もじっと若い空想にふけっていたことがある。――洛陽船から茶を購(あがな)おうと思って」
茶を思えば、同時に、母が憶われてくる。

この秋、いかに在(お)わすか。足の冷えや、持病が出てはこぬだろうか。ご不自由はどうあろうか。

いやいや母は、そんなことすら忘れて、ひたすら、子が大業をなす日を待っておられるであろう。それと共に、いかに聡明な母でも、実際の戦場の事情やら、また実地に当る軍人同士のあいだにも、常の社会と変らない難しい感情やら争いやらあって、なかなか武力と正義の信条一点張りで、世に出られないことなどは、お察しもつくまい。ご想像にも及ぶまい。

だから以来、なんのよい便りもなく、月日をむなしく送っている子をお考えになると、
(阿備(あび)は、何をしているやら)
と、さだめしふがいない者と、焦(じ)れッたく思っておいでになるに相違ない。

「そうだ。せめて、体だけは無事なことでも、お便りしておこうか」
玄徳は、思いつめて、馬の鞍をおろし、その鞍に結びつけてある旅具の中から、翰墨(かんぼく)と筆を取りだして、母へ便りを書きはじめた。

馬に水を飼って、休んでいた兵たちも、玄徳が箋葉(せんよう)に筆をとっているのを見ると、
「おれも」
「吾も」
と、何か書きはじめた。

誰にも、故郷がある。姉妹兄弟がある。玄徳は思いやって、
「故郷へ手紙をやりたい者は、わしの手もとへ持ってこい。親のある者は、親へ無事の消息をしたがよいぞ」と、いった。
兵たちは、それぞれ紙片や木皮へ、何か書いて持ってきた。玄徳はそれを一嚢(のう)に納めて、実直な兵を一人撰抜し、
「おまえは、この手紙の嚢(ふくろ)をたずさえて、それぞれの郷里の家へ、郵送する役目に当れ」
と、路費を与えて、すぐ立たせた。

そして落日に染まった黄河を、騎と兵と荷駄とは、黒いかたまりになって、浅瀬は徒渉(としょう)し、深い所は筏(いかだ)に棹(さお)さして、対岸へ渡って行った。

先頃から河南の地方に、何十万とむらがっている賊の大軍と戦っていた大将軍朱雋(しゅしゅん)は、思いのほか賊軍が手ごわいし、味方の死傷はおびただしいので、
「いかがはせん」と、内心煩悶(はんもん)して、苦戦の憂いを顔にきざんでいたところだった。

そこへ、
「潁川(えいせん)から広宗へ向った玄徳の隊が、形勢の変化に、途中から引っ返してきて、ただ今、着陣いたしましたが」と、幕僚から知らせがあった。

朱雋はそれを聞くと、
「やあ、それはよい所へ来た。すぐ通せ、失礼のないように」
と、前とは、打って変って、丁寧に待遇した。陣中ながら、洛陽の美酒を開き、料理番に牛など裂かせて、
「長途、おつかれであろう」と、歓待した。

正直な張飛は、前の不快もわすれて、すっかり感激してしまい、
「士は己(おのれ)を知る者の為に死す、である」
などと酔った機嫌でいった。
だが歓待の代償は義軍全体の生命に近いものを求められた。

翌日。
「早速だが、豪傑にひとつ、打破っていただきたい方面がある」
と、朱雋は、玄徳らの軍に、そこから約三十里ほど先の山地に陣取っている頑強な敵陣の突破を命じた。

否む理由はないので、
「心得た」と、義軍は、朱雋の部下三千を加えて、そこの高地へ攻めて行った。
やがて、山麓の野に近づくと天候が悪くなった。雨こそ降らないが、密雲低く垂れて、烈風は草を飛ばし、沼地の水は霧になって、兵馬の行くてを晦(くら)くした。

「やあ、これはまた、賊軍の大将の張宝が、妖気を起して、われらを皆ごろしにすると見えたるぞ。気をつけろ。樹の根や草につかまって、烈風に吹きとばされぬ用心をしたがいいぞ」

朱雋からつけてよこした部隊から、誰いうとなく、こんな声が起って、恐怖はたちまち全軍を覆った。

「ばかなっ」
関羽は怒って、
「世に理のなき妖術などがあろうか。武夫(もののふ)たるものが、幻妖(げんよう)の術に怖れて、木の根にすがり、大地を這い、戦意を失うとは、何たるざまぞ。すすめや者ども、関羽の行く所には妖気も避けよう」
と大声で鼓舞したが、
「妖術にはかなわぬ。あたら生命をわざわざ落とすようなものだ」
と、朱雋の兵は、なんといっても前進しないのである。

聞けば、この高地へ向った官軍は、これまでにも何度攻めても、全滅になっているというのであった。黄巾賊の大方師(だいほうし)張角の弟にあたる張宝は、有名な妖術つかいで、それがこの高地の山谷の奥に陣取っているためであるという。

そう聞くと張飛は、
「妖術とは、外道(げどう)魔物のする業(わざ)だ。天地闢(ひら)けて以来、まだかつて方術者が天下を取ったためしはあるまい。怖(お)じる心、おそれる眼(まなこ)、わななく魂を惑わす術を、妖術とはいうのだ。怖れるな、惑うな。――進まぬやつは、軍律に照らして斬り捨てるぞ」
と、軍のうしろにまわって、手に蛇矛(じゃぼこ)を抜きはらい、督戦に努めた。
朱雋の兵は、敵の妖術にも恐怖したが、張飛の蛇矛にはなお恐れて、やむなくわっと、黒風へ向って前進しだした。

その日は、天候もよくなかったに違いないが、戦場の地勢もことに悪かった。寄手にとっては、甚だしく不利な地の利にいやでも置かれるように、そこの高地は自然にできている。

峨々(がが)たる山が、道の両わきに、鉄門のように聳(そび)えている。そこを突破すれば、高地の沢から、山地一帯の敵へ肉薄できるのだが、そこまでが、近づけないのだった。

「鉄門峡まで行かぬうちに、いつも味方はみなごろしになる。豪傑、どうか無謀はやめて、引っ返したまえ」
と、朱雋の軍隊の者は、部将からして、怯(ひる)み上がっていうほどだから、兵卒が皆、恐怖して自由に動かないのも無理ではなかった。

だが、張飛は、
「それは、いつもの寄手が弱いからだ。きょうは、われわれの義軍が先に立って進路を斬りひらく、武夫たる者は、戦場で死ぬのは、本望ではないか。死ねや、死ねや」と、督戦に声をからした。

先鋒は、ゆるい砂礫(されき)の丘を這って、もう鉄門峡のまぢかまで、攻め上っていた。朱雋(しゅしゅん)軍も、張飛の蛇矛に斬り捨てられるよりはと、その後から、芋虫の群れが動くように這い上がった。
すると、たちまち、一陣の風雷、天地を震動して木も砂礫も人も、中天へ吹きあげられるかとおぼえた時、一方の山峡の頂に、陣鼓を鳴らし、銅鑼(どら)を打ちとどろかせて、
――わあっ。わあっ。
と、烈風も圧するような鬨(とき)の声がきこえた。寄手は皆地へ伏し、眼をふさぎ、耳を忘れていたが、その声に振り仰ぐと、山峡の絶巓(ぜってん)はいくらか平盤な地になっているとみえて、そこに賊の一群が見え「地公将軍(ちこうしょうぐん)」と書いた旗や、八卦の文を印した黄色の幟(のぼり)、幡(はた)など立て並べて、
「死神につかれた軍が、またも黄泉(よみじ)へ急いで来つるぞ。冥途(めいど)の扉(と)を開けてやれ」
と、声を合わせて笑った。

その中に一人、遠目にもわかる異相の巨漢があった。口に魔符(まふ)を噛み、髪をさばき、印(いん)をむすんでなにやら呪文を唱えている様子だったが、それと共に烈風は益々つのって、晦冥(かいめい)な天地に、人の形や魔の形をした赤、青、黄などの紙片がまるで五彩の火のように降ってきた。

「やあ、魔軍が来た」
「賊将張宝が、呪(じゅ)を唱えて、天空から羅刹(らせつ)の援軍を呼び出したぞ」

朱雋の兵は、わめき合うと、逃げ惑って、途も失い、ただ右往左往うろたえるのみだった。
張飛の督戦も、もう効かなかった。朱雋の兵があまり恐れるので、義軍の兵にも恐怖症がうつったようである。そして風魔と砂礫にぶつけられて、全軍、進むことも退くこともできなくなってしまった時、赤い紙片(かみきれ)や青い紙片の魔物や武者は、それ皆が、生ける夜叉か羅刹の軍のように見えて、寄手は完全に闘志を失ってしまった。
事実。
そうしている間に、無数の矢や岩石や火器は、うなりをあげ、煙をふいて、寄手の上に降ってきたのである。またたくうちに、全軍の半分以上は、動かないものになっていた。

「敗れた! 負けたっ」
玄徳は、軍を率いてから初めて惨たる敗戦の味をいま知った。
そう叫ぶと、
「関羽っ。張飛っ。はや兵を退(ひ)けっ――兵を退けっ」
そして自分もまっしぐらに、馬首を逆落しに向けかえし、砂礫とともに山裾へ馳け下った。

敗軍を収めて、約二十里の外へ退き、その夜、玄徳は関羽、張飛のふたりと共に、帷幕(いばく)のうちで軍議をこらした。

「残念だ、きょうまで、こんな敗北はしたことがないが」と、張飛がいう。
関羽は、腕を組んでいたが、
「朱雋(しゅしゅん)の兵が、戦わぬうちから、あのように恐怖しているところを見ると、何か、あそこには不思議がある。張宝の幻術も、実際、ばかにはできぬかも知れぬ」と、呟いた。

「幻術の不思議は、わしには解(と)けている。それは、あの鉄門峡の地形にあるのだ。あの峡谷には、常に雲霧が立ちこめていて、その気流が、烈風となって、峡門から麓(ふもと)へいつも吹いているのだと思う」
これは玄徳の説である。

「なるほど」と二人とも初めて、そうかと気づいた顔つきだった。
「だから少しでも天候の悪い日には、ほかの土地より何十倍も強い風が吹きまくる。この辺が、晴天の日でも、峡門には、黒雲がわだかまり、砂礫が飛び、煙雨が降り荒(すさ)んでいる」

「ははあ、大きに」
「好んで、それへ向ってゆくので、近づけばいつも、賊と戦う前に、天候と戦うようなものになる。張宝の地公将軍とやらは、奸智に長(た)けているとみえて、その自然の気象を、自己の妖術かの如く、巧みに使って、藁(わら)人形の武者や、紙の魔形(まぎょう)など降らせて、朱雋軍の愚かな恐怖をもてあそんでいたものであろう」

「さすがに、ご活眼です。いかにも、それに違いありません。けれど、あの山の賊軍を攻めるには、あの峡門から攻めかかるほかありますまい」

「ない。――それ故に、朱雋はわざと、われわれを、この攻め口へ当らせたのだ」
玄徳は、沈痛にいった。
関羽、張飛の二人も、良い策もない、唇をむすんで、陣の広野へ眼をそらした。
折から仲秋の月は、満目の広野に露をきらめかせ、二十里外の彼方に黒々と見える臥牛のような山岳のあたりは、味方を悩ませた悪天候も嘘ごとのように、大気と月光の下(もと)に横たわっていた。

「いや、ある、ある」
突然、張飛が、自問自答して云いだした。
「攻め口が、ほかにないとはいわさん。長兄、一策があるぞ」
「どうするのか」
「あの絶壁を攀(よ)じ登って、賊の予測しない所から不意に衝きくずせば、なんの造作もない」
「登れようか、あの断崖絶壁へ」
「登れそうに見える所から登ったのでは、奇襲にはならない。誰の眼にも、登れそうに見えない場所から登るのが、用兵の策というものであろう」

「張飛にしては、珍しい名言を吐いたものだ。その通りである。登れぬものときめてしまうのは、人間の観念で、その眼だけの観念を超えて、実際に懸命に当ってみれば案外やすやすと登れるような例はいくらでもあることだ」

さらに、三名は、密議をねって、翌る日の作戦に備えた。
朱雋(しゅしゆん)軍の兵、約半分の数に、おびただしい旗や幟(のぼり)を持たせ、また、銅鑼(どら)や鼓(こ)を打ち鳴らさせて、きのうのように峡門の正面から、強襲するような態(てい)を敵へ見せかけた。

一方、張飛、関羽の両将に、幕下の強者(つわもの)と、朱雋軍の一部の兵を率きつれた玄徳は、峡門から十里ほど北方の絶壁へひそかに這いすすみ、見るに耐えない苦心のもとに、山の一端へ攀(よ)じ登ることに成功した。

そしてなお、士気を鼓舞するために、すべての兵が山巓(さんてん)の一端へ登りきると、そこで玄徳と関羽は、おごそかなる破邪攘魔(はじゃじょうま)の祈祷を天地へ向って捧げるの儀式を行った。

敵を前にしながら、わざとそんな所で、おごそかな祈祷の儀式などしたのは、玄徳直属の義軍の中にも、張宝の幻術を内心怖れている兵がたくさんいるらしく見えたからであった。

式が終ると、
「見よ」
玄徳は空を指していった。

「きょうの一天には、風魔もない、迅雷もない、すでに、破邪の祈祷で、張宝の幻術は通力を失ったのだ」
兵は答えるに、万雷のような喊声(かんせい)をもってした。

関羽と張飛は、それと共に、
「それ、魔軍の砦(とりで)を踏みつぶせ」
と軍を二手にわけて、峰づたいに張宝の本拠へ攻めよせた。

地公将軍の旗幟(きし)を立てて、賊将の張宝は、例によって、鉄門峡の寄手を悩ましにでかけていた。
すると、思わざる山中に、突然鬨(とき)の声があがった。彼は、味方を振返って、
「裏切り者が出たか」と、訊ねた。
実際、そう考えたのは、彼だけではなかった。裏切り者裏切り者という声が、何処ともなく伝わった。

張宝は、
「不埓(ふらち)な奴、何者か、成敗してくれん」
と、そこの守りを、賊の一将にいいつけて、自身、わずかの部下を連れて、山谷の奥にある――ちょうど螺(ら)の穴のような渓谷を、ロバに鞭打って帰ってきた。

するとかたわらの沢の密林から、一すじの矢が飛んできて、張宝のこめかみにぐざと立った。張宝はほとばしる黒血へ手をやって、わッと口を開きながら矢を抜いた。しかし鏃(やじり)はふかく頭蓋の中に止まって、矢柄だけしか抜けてこなかったくらいなので、とたんに、彼の巨躯は、鞍の上から真っ逆さまに落ちていた。

「賊将の張宝は射止めたるぞ。劉玄徳、ここに黄匪の大方張角の弟、地公将軍を討ち取ったり」

次に、どこかで玄徳の大音声がきこえると、四方の山沢、みな鼓を鳴らし、奔激の渓流、挙(こぞ)って鬨(とき)をあげ、草木みな兵と化(な)ったかと思われた。玄徳の兵は、一斉に衝いて出で、あわてふためく張宝の部下をみなごろしにした。

山谷の奥からも、同時に黒煙濛々(もうもう)とたち昇った。張飛か、関羽の手勢が、本拠の砦(とりで)に、火をかけたものらしい。
上流から流れてくる渓水は、みるまに紅の奔流と化した。山吠え、谷叫び、火は山火事となって、三日三晩燃えとおした。

敵を討ち果たした証拠すら、数一万余、黒焦げとなった賊兵の死骸幾千幾万なるを知らない。殲滅戦の続けらるること七日余り、玄徳は、赫々たる武勲を負って朱雋(しゅしゅん)の本営へ引揚げた。

朱雋は、玄徳を見ると、
「やあ、足下(そっか)は実に運がいい。戦(いくさ)にも、運不運があるものでな」と、いった。

「ははあ、そうですか。ひと口に、武運ということもありますからね」
玄徳は、なんの感情にも動かされないで、軽く笑った。
朱雋は、さらにいう。

「自分のひきうけている野戦のほうは、まだいっこう勝敗がつかない。山谷の賊は、ふくろの鼠としやすいが、野陣の敵兵は、押せばどこまでも、逃げられるので弱るよ」
「ごもっともです」
それにも、玄徳はただ、笑ってみせたのみであった。
然るところ、ここに、先陣から伝令が来て、一つの異変を告げた。

伝令の告げるには、
「先に戦没した賊将張宝の兄弟張梁(ちょうりょう)という者、天公将軍の名を称し、久しくこの広野の陣後にあって、督軍しておりましたが、張宝すでに討たれぬと聞いて、にわかに大兵をひきまとめ、陽城へたて籠って、城壁を高くし、この冬を守って越えんとする策を取るかに見うけられます」
とのことだった。

朱雋は、聞くと、
「冬にかかっては、雪に凍え、食糧の運輸にも、困難になる。ことに都聞(みやこきこ)えもおもしろくない。今のうちに攻めおとせ」
総攻撃の令を下した。

大軍は陽城を囲み、攻めること急であった。しかし、賊城は要害堅固をきわめ、城内には多年積んだ食物が豊富なので、一月余も費やしたが、城壁の一角も奪れなかった。

「困った。困った」
朱雋は本営で時折ため息をもらしたが、玄徳は聞えぬ顔をしていた。
よせばいいに、そんな時、張飛が朱雋へいった。

「将軍。野戦では、押せば退くしで、戦いにくいでしょうが、今度は、敵も城の中ですから、袋の鼠を捕るようなものでしょう」
朱雋は、まずい顔をした。

そこへ遠方から使いが来て、新しい情報をもたらした。それもしかし朱雋の機嫌をよくさせるものではなかった。
曲陽の方面には、朱雋と共に、討伐大将軍の任を負って下っていた董卓(とうたく)・皇甫嵩(こうほすう)の両軍が、賊の大方張角の大兵と戦っていた。使いはその方面のことを知らせに来たものだった。

董卓と皇甫嵩のほうは、朱雋のいういわゆる武運がよかったのか、七度戦って七度勝つといった按配であった。ところへまた、黄賊の総帥張角が、陣中で病没したため、総攻撃に出て、一挙に賊軍を潰滅させ、降人を収めること十五万、辻に梟(か)くるところの賊首何千、さらに、張角を埋(い)けた墳(つか)をあばいてその首級を洛陽へ上(のぼ)せ、
(戦果かくの如し)と、報告した。

大賢良師張角と称していた首魁(しゅかい)こそ、天下に満つる乱賊の首体である。張宝は先に討たれたりといっても、その弟にすぎず、張梁なおありといっても、これもその一肢体でしかない。

朝廷の御感(ぎょかん)は斜めならず、
(征賊第一勲)
として、皇甫嵩(こうほすう)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任じ、益州(えきしゅう)の牧(ぼく)に封ぜられ、そのほか恩賞の令を受けた者がたくさんある。わけても、陣中常に赤い甲冑を着て通った武騎校尉曹操(そうそう)も、功によって、済南(さいなん)の相(しょう)に封じられたとのことであった。

自分が逆境の中に、他人の栄達を聞いて、共によろこびを感じるほど、朱雋(しゅしゅん)は寛度でない。彼はなお、焦心(あせ)りだして、
「一刻もはやく、この城を攻め陥し、汝らも、朝廷の恩賞にあずかり、封土へ帰って、栄達の日を楽しまずや」と、幕僚をはげました。

もちろん、玄徳らも、協力を惜しまなかった。攻撃に次ぐ攻撃をもって、城壁に当り、さしも頑強な賊軍をして、眠るまもない防戦に疲れさせた。
城内の賊の中に、厳政(げんせい)という男があった。これは方針をかえる時だとさとったので、ひそかに朱雋に内通しておき、賊将張梁の首を斬って、
「願わくば、悔悟(かいご)の兵らに、王威の恩浴を垂れたまえ」と、軍門に降ってきた。

陽城を墜(おと)した勢いで、
「さらに、与党を狩りつくせ」
と、朱雋の軍六万は、宛城(えんじょう)へ迫って行った。そこには、黄巾の残党、孫仲(そんちゅう)・韓忠(かんちゅう)・趙弘(ちょうこう)の三賊将がたて籠っていた。

「賊には援(たす)けもないし、城内の兵糧もいたずらに敗戦の兵を多く容れたから、またたく間に尽きるであろう」

朱雋は、陣頭に立って、賊の宛城の運命を、かく卜(うらな)った。
朱雋軍六万は、宛城の周囲をとりまいて、水も漏らさぬ布陣を詰めた。
賊軍は、
「やぶれかぶれ」の策を選んだか、連日、城門をひらいて、戦を挑み、官兵賊兵、相互におびただしい死傷を毎日積んだ。

然しいかんせん、城内の兵糧はもう乏しくて、賊は飢渇に瀕してきた。そこで賊将韓忠は遂に、降使を立てて、
「仁慈を垂れたまえ」と、降伏を申し出た。

朱雋は、怒って、
「窮(きゅう)すれば、憐(あわれ)みを乞い、勢いを得れば、暴魔の威をふるう、今日に至っては、仁慈もなにもない」
と、降参の使者を斬って、なおも苛烈に攻撃を加えた。

玄徳は彼に諫(いさ)めた。
「将軍、賢慮したまえ。昔、漢の高祖の天下を統(す)べたまいしは、よく降人を容れてそれを用いたためといわれています」

将軍は、嘲笑(あざわら)って、
「ばかを言いたまえ。それは時代による。あの頃は、秦(しん)の世が乱れて項羽のような”がさつ”者の私議暴論が横行して、天下に定まれる君主もなかった時勢だろ、ゆえに高祖は、讐(あだ)ある者でも、降参すれば、手なずけて用うことに腐心したのである。また、秦の乱世のそれと、今日の黄賊とは、その質がちがう。生きる利なく、窮地に墜ちたがゆえに、降を乞うてきた賊を、愍(あわ)れみをかけて、救けなどしたら、それはかえって寇(あだ)を長じさせ、世道人心に、悪業を奨励するようなものではないか。この際、断じて、賊の根を絶たねばいかん」

「いや、伺ってみると、大変ごもっともです」
玄徳は、彼の説に伏した。

「では、攻めて城内の賊を、殲滅するとしてもです。こう四方、一門も遁(のが)れる隙間なく囲んで攻めては、城兵は、死の一途(いちず)に結束し、恐ろしい最後の力を奮いだすにきまっています。味方の損害もおびただしいことになりましょう。一方の門だけは、逃げ口を与えておいて、三方からこれを攻めるべきではありますまいか」

「なるほど、その説はよろしい」
朱雋は、直ちに、命令を変更して、急激に攻めたてた。
東南(たつみ)の一門だけ開いて、三方から鼓をならし、火を放った。
果たして、城内の賊は、乱れ立って一方へくずれた。

朱雋は、騎を飛ばして、乱軍の中に、賊将の韓忠を見かけ、鉄弓で射とめた。
韓忠の首を、槍に突き刺させて、従者に高く振り上げさせ、
「征賊大将軍朱雋、賊徒の将、韓忠をかく葬ったり。われと名乗る者やなおある」
と、得意になって怒鳴った。

すると、残る賊将の趙弘(ちょうこう)、孫仲(そんちゅう)のふたりは、
「あいつが朱雋か」と、火炎の中を、黒ロバ(こくろ)を飛ばして、名のりかけてきた。

朱雋は、たまらじと、自軍のうちへ逃げこんだ。韓忠親分の讐(かたき)と怒りに燃えた賊兵は、朱雋を追って、朱雋の軍の真ん中を突破し、まったくの乱軍を呈した。
賊の一に対して、官兵は十人も死んだ。朱雋につづいて、官軍はわれがちに十里も後ろへ退却した。

賊軍は、気をもり返して、城壁の火を消し、再び四方の門を固くして、
「さあいつでも来い」と構えなおした。
その日の黄昏(たそが)れ、多くの傷兵が、惨として夕月の野に横たわっている官軍の陣営へ、何処からきたか、一彪(ぴょう)の軍馬が馳けきたった。

「何者か」
と、玄徳らは、やがて近づいて陣門に入るその軍馬を、幕舎の傍らから見ていた。
総勢、約千五百の兵。
隊伍は整然、歩武堂々。

「そもこの精鋭を統(す)べる将はいかなる人物か」を、それだけでも思わすに足るものだった。
見てあれば。
その隊伍の真っ先に、旗手、鼓手の兵を立て、続いてすぐ後から、一頭の青驪(せいり)にまたがって、威風あたりを払ってくる人がある。

これなんその一軍の大将であろう。広額(こうがく)、濶面(かつめん)、唇は丹(たん)のようで、眉は峨眉山(がびさん)の半月のごとく高くして鋭い。熊腰(ゆうよう)にして虎態(こたい)、いわゆる威あって猛(たけ)からず、見るからに大人の風を備えている。

「誰かな?」
「誰なのやら」

関羽も張飛も、見守っていたが、ほどなく陣門の衛将が、名を糺(ただ)すに答える声が、遠くながら聞えてきた。

「これは呉郡富春(ごぐんふしゅん)の産で、孫堅(そんけん)、字(あざな)は文台(ぶんだい)という者です。古(いにしえ)の孫子が末葉であります。官は下丕(かひ)の丞(じょう)ですが、このたび王軍、黄巾の賊徒を諸州に討つと承って、手飼いの兵千五百を率い、いささか年来の恩沢にむくゆべく、官軍のお味方たらんとして馳せ参じた者であります。――朱雋(しゅしゅん)将軍へよろしくお取次を乞う」

堂々たる態度であった。
また、音吐(おんど)も朗々と聞えた。
「…………」

関羽と張飛は、顔を見合わせた。先には、潁川(えいせん)の野で、曹操(そうそう)を見、今ここにまた、孫堅(そんけん)という一人物を見て、
「やはり世間はひろい。秀(ひい)でた人物がいないではない。ただ、世の平静なる時は、いないように見えるだけだ」と、感じたらしかった。

同じ、その世間を、
「甘くはできないぞ」
という気持を抱いたであろう。なにしろ、孫堅の入陣は、その卒伍までが、立派だった。

孫堅の来援を聞いて、
「いや呉郡富春に、英傑ありと、かねてはなしに聞いていたが、よくぞ来てくれた」
と、朱雋はななめならずよろこんで迎えた。

今日、さんざんな敗軍の日ではあったし、朱雋は、大いに力を得て、翌日は、孫堅が准泗(わいし)の精鋭千五百をも加えて、
「一挙に」と、宛城(えんじょう)へ迫った。

即ち、新手の孫堅には、南門の攻撃に当らせ、玄徳には北門を攻めさせ、自身は西門から攻めかかって、東門の一方は、前日の策のとおり、わざわざ道をひらいておいた。
「洛陽の将士に笑わるるなかれ」
と、孫堅は、新手でもあるので、またたく間に、南門を衝き破り、彼自身も青毛の馬をおりて、濠を越え、単身、城壁へよじ登って、
「呉郡の孫堅を知らずや」
と賊兵の中へ躍り入った。

刀を舞わして孫堅が賊を斬ること二十余人、それに当って、噴血を浴びない者はなかった。
賊将の趙弘(ちょうこう)は、
「ふがいなし、彼奴(きゃつ)、何ほどのことやあらん」

赫怒(かくど)して孫堅に名のりかけ、烈戦二十余合、火をとばしたが、孫堅はあくまでつかれた色も見せず、たちまち趙弘を斬って捨てた。
もう一名の賊将孫仲は、それを眺めて、かなわじと思ったか、敗走する味方の賊兵の中にまぎれこんで、早くも東門から逃げ走ってしまった。

その時。
ひゅっと、どこか天空で、弦を放たれた一矢の矢うなりがした。

矢は、東門の望楼のほとりから、斜めに線を描いて、怒濤のように、われがちと敗走してゆく賊兵の中へ飛んだが、狙いあやまたず、今しも金蘭橋(きんらんきょう)の外門まで落ちて行った賊将孫仲の頸(うなじ)を射ぬき、孫仲は馬上からもんどり打って、それさえ眼に入らぬ賊兵の足にたちまち踏みつぶされたかに見えた。

「あの首、掻き取ってこい」
玄徳は、部下に命じた。
望楼のかたわらの壁上に鉄弓を持って立ち、目ぼしい賊を射ていたのは彼であった。

一方、官軍の朱雋(しゅしゅん)も、孫堅も城中に攻め入って、首をとること数万級、各所の火災を鎮め、孫仲・趙弘・韓忠三賊将の首を城外に梟(か)け、市民に布告を発し、城頭の余燼まだ煙る空に、高々と、王旗をひるがえした。

「漢室万歳」
「洛陽軍万歳」
「朱雋大将軍万歳」
南陽の諸郡もことごとく平定した。

かの大賢良師張角が、戸ごとに貼らせた黄いろい呪符(じゅふ)もすべてはがされて、黄巾の兇徒は、まったく影をひそめ、万戸泰平を謳歌するかに思われた。
しかし、天下の乱は、天下の草民から意味なく起るものではない。むしろその禍根は、民土の低きよりも、廟堂の高きにあった。川下よりも川上の水源にあった。政を奉ずる者より、政をつかさどる者にあった。地方よりも中央にあった。

けれど腐れる者ほど自己の腐臭には気づかない。また、時流のうごきは眼に見えない。
とまれ官軍は旺(さかん)だった。征賊大将軍は功なって、洛陽へ凱旋した。
洛陽の城府は、挙げて、遠征の兵馬を迎え、市は五彩旗に染まり、夜は万燈にいろどられ、城内城下、七日七夜というもの酒の泉と音楽の狂いと、酔どれの歌などで沸くばかりであった。

王城の府、洛陽は千万戸という。さすがに古い伝統の都だけに、物資は富み、文化は絢爛(けんらん)だった。佳人貴顕たちの往来は目を奪うばかり美しい。帝城は金壁にかこまれ、瑠璃(るり)の瓦を重ね、百官のロバ車(ろしゃ)は、翡翠門(ひすいもん)に花のよどむような雑鬧(ざっとう)を呈している。天下のどこに一人の飢民でもあるか、今の時代を乱兆と悲しむいわれがあるのか、この殷賑(いんしん)に立って、旺(さかん)なる夕べの楽音を耳にし、万斛(ばんこく)の油が一夜にともされるという騒曲の灯の、宵早き有様を眺むれば、むしろ、世を憂え嘆く者のことばが不思議なくらいである。

けれど。
二十里の野外、そこに連(つら)なる外城の壁からもし一歩出てみるならば、秋は更けて、木も草も枯れ、いたずらに高き城壁に、蔓(つる)草の離々たる葉のみわずかに紅く、日暮れれば花々の闇一色、夜暁(あ)ければ颯々(さっさつ)の秋風ばかり哭(な)いて、所々の水辺に、寒げに啼く牛の仔と、灰色の空をかすめる鴻(こう)の影を時たまに仰ぐくらいなものであった。

そこに。
無口に屯(たむろ)している人間が、枯れ木や草をあつめて焚火をしながら、わずかに朝夕の霜の寒さをしのいでいた。
玄徳たちの義軍であった。

義軍は、外城の門の一つに立って、門番の役を命じられている。
といえば、まだ体裁はよいが、正規の官軍でなし、官職のない将卒なので、三軍洛陽に凱旋の日も、ここに停められて、内城から先へは入れられないのであった。

鴻(こう)が飛んでゆく。
野芙蓉(のふよう)にゆらぐ秋風が白い。
「…………」
玄徳も関羽も、この頃は、無口であった。
あわれな卒伍は、まだ洛陽の温かい菜の味も知らない。土龍(もぐら)のように、鉄門の蔭に、かがまっていた。
張飛も黙然と、水ばなをすすっては、時折、ひどく虚無に囚(とら)われたような顔をして、空行く鴻の影を見ていた。

十常侍(じょうじ)

「劉氏(りゅううじ)。もし、劉氏ではありませんか」
誰か呼びかける人があった。

その日、劉玄徳は、朱雋(しゅしゅん)の官邸を訪ねることがあって、王城内の禁門の辺りを歩いていた。
振向いてみると、それは郎中張均(ろうちゅうちょうきん)であった。張均は今、参内するところらしく、従者に輿(こし)をかつがせそれに乗っていたが、玄徳の姿を見かけたので、
「靴を」と従者に命じて、輿から身をおろしていた。

「おう、どなたかと思うたら、張均閣下でいらっしゃいましたか」
玄徳は、敬礼をほどこした。

この人はかつて、盧植(ろしょく)をおとしいれた黄門左豊などと共に、監軍の勅使として、征野へ巡察に来たことがある。その折、玄徳とも知って、お互いに世事を談じ、抱懐(ほうかい)を話し合ったりしたこともある間なので、
「思いがけない所でお目にかかりましたな、ご健勝のていで、何よりに存じます」
と、久濶(きゆうかつ)を叙(の)べた。

郎中張均(ちょうきん)は、そういう玄徳の、従者も連れていない、しかも、かつて見た征衣のまま、この寒空を孤影悄然と歩いている様子をいぶかしげに打眺めて、
「貴公は今どこに何をしておられるのですか。少しお痩せになっているようにも見えるが」
と、かえって玄徳の境遇を反問した。

玄徳は、ありのままに、なにぶんにも自分には官職がないし、部下は私兵と見なされているので、凱旋の後も、外城より入るを許されず、また、忠誠の兵たちにも、この冬に向って、一枚の暖かい軍衣、一片の賞禄をもわけ与えることができないので、せめて外城の門衛に立っていても、霜をしのぐに足る暖衣と食糧とを恵まれんことを乞うために、きょう朱雋(しゅしゅん)将軍の官宅まで、願書をたずさえて出向いて来たところです、と話した。

「ほ……」
張均は、驚いた顔して、
「では、足下はまだ、官職にもつかず、また、今度の恩賞にもあずかっていないんですか」
と、重ねて糺(ただ)した。

「はい、沙汰を待てとのことに、外城の門に屯(たむろ)しています。けれどもう冬は来るし、部下が不愍(ふびん)なので、お訴えに出てきたわけです」

「それは初めて知りました。皇甫嵩(こうほすう)将軍は、功によって、益州(えきしゅう)の太守に封ぜられ、朱雋は都へ凱旋するとただちに車騎将軍となり河南の尹(いん)に封ぜられている。あの孫堅さえ内縁あって、別部司馬(べつぶしば)に叙せられたほどだ。――いかに功がないといっても、貴君の功は孫堅以下ではない。いや或る意味では、こんどの掃匪征賊の戦で、最も苦戦に当って、忠誠をあらわした軍は、貴下の義軍であったといってもよいのに」

「…………」
玄徳の面にも、鬱々(うつうつ)たるものがあった。ただ、彼は、朝廷の命なるがままに、思うまいとしているふうだった。そして部下の不愍を身の不遇以上にあわれと思いしめて噛んでいた唇の態であった。

「いや、よろしい」
やがて張均は強く言った。

「それも、これも、思い当ることがある。地方の騒賊を掃(はら)っても、社稷(しゃしょく)の鼠巣(そそう)を掃わなかったら、四海の平安を長く保つことはできぬ。賞罰の区々不公平な点ばかりでなく、嘆くべきことが実に多い。――貴君のことについては、特に帝へ奏聞(そうもん)しておこう。そのうちに明朗な恩浴をこうむることもあろうから、まあ気を腐らせずに待つがよい」
郎中張均は、そう慰めて、玄徳とわかれ、やがて参内して、帝に拝謁した。

めずらしく帝のお側には誰もいなかった。
帝は、玉座からいわれた。

「張郎中。今日は何か、朕(ちん)に、折入って懇願あるということだから、近臣はみな遠ざけておいたぞ。気がねなく思うことを申すがよい」

張均は、階下に拝跪(はいき)して、
「帝のご聡明を信じて、臣張均は今日こそ、あえて、お気に入らぬことをも申しあげなければなりません。照々として、公明な御心をもて、暫時、お聴きくださいまし」

「なんじゃ」
「ほかでもありませんが、君側の十常侍(じょうじ)らのことについてです」
十常侍ときくと、帝のお瞳はすぐ横へ向いた。

御気色がわるい――
張均には分っていたが、ここを冒(おか)して真実の言をすすめるのが忠臣の道だと信じた。

「臣が多くを申しあげないでも、ご聡明な帝には、疾(と)くお気づきと存じますが、天下も今、ようやく平静に返ろうとして地方の乱賊も終熄(しゅうそく)したところです。この際、どうか君側のよこしまな心を掃(はら)い、ご粛正を上よりも示して、人民たちに暗天の憂えなからしめ、業に安んじ、ご徳政を謳歌するように、ご賢慮仰ぎたくぞんじまする」

「張郎中。なんできょうに限って、突然そんなことを云いだすのか」
「いや、十常侍らが政事を乱して帝の御徳を晦(くろ)うし奉っている事はきょうのことではありません。私のみの憂いではありません。天下万民の怨みとするところです」

「怨み?」
「はい。たとえば、今度の黄巾の乱でも、その賞罰には、十常侍らの私心が、いろいろ働いていると聞いています。賄賂(まいない)をうけた者には、功なき者へも官禄を与え、しからざる者は、罪なくても官を貶(おと)し、いやもう、ひどい沙汰です」

帝の御気色は、いよいよ曇って見えた。けれど、帝は何もいわれなかった。
十常侍というのは、十人の内官のことだった。民間の者は、彼らを宦官(かんがん)と称した。君側の権をにぎり後宮(こうきゅう)にも勢力があった。

議郎(ぎろう)張譲(ちょうじょう)、議郎(ぎろう)趙忠(ちょうちゅう)、議郎(ぎろう)段珪(だんけい)、議郎(ぎろう)夏輝(かき)――などという十名が中心となって、枢密(すうみつ)に結束をつくっていた。議郎とは、参議という意味の役である。だからどんな枢密の政事にもあずかった。帝はまだお若くあられるし、そういう古池の主みたいな老獪と曲者がそろっているので、彼らが遂行しようと思うことは、どんな悪政でもやって通した。

霊帝はまだご若年(じゃくねん)なので、その悪弊に気づかれていても、いかんともする術(すべ)をご存じない。また、張均の苦諫(くかん)に感動されても、何というお答えもでなかった。ただ眼を宮中の苑(にわ)へそらしておられた。

「――遊ばしませ、ご断行なさいませ。今がその時です。陛下、ひとえに、ご賢慮をお決し下さいませ」

張均は、口を酸(す)くし、われとわが忠誠の情熱に、眦(まなじり)に涙をたたえて諫言した。
遂には、玉座に迫って、帝の御衣(ぎょい)にすがって、泣訴(きゅうそ)した。帝は、当惑そうに、
「では、張郎中、朕(ちん)に、どうせいというのか」と、問われた。

ここぞと、張均は、
「十常侍らを獄に下して、その首を刎ね(はね)、南郊に梟(か)けて、諸人に罪文と共に示し給われば、人心おのずから平安となって、天下は」
言いかけた時である。

「だまれっ。――まず汝の首より先に獄門に梟けん」
と、帳(とばり)の蔭から怒った声がして、それと共に十常侍十名の者が躍り出した。みな髪(はつ)を逆立て、眦(まなじり)をあげながら、張均へ迫った。
張均は、あッと驚きのあまり昏倒してしまった。
手当されて、後に、典医から薬湯をもらったが、それを飲むと眠ったまま死んでしまった。

張均は、その時、そんな死に方をしなくても、帝へ忠諫したことを十常侍に聴かれていたから、必ずや、後に命を完(まっと)うすることはできなかったろう。

十常侍も、以来、
「油断しておると、とんでもない忠義ぶった奴が現れるぞ」
と気がついたか、誡(いまし)め合って、帝の周囲はもとより、内外の政にわたって、大いに警戒しているふうであった。
それもあるし、帝ご自身も、功ある者のうちに、恩賞にももれて不遇をかこち、不平を抑えている者が少なくないのに気がつかれたか、特に、勲功の再調査と、第二期の恩賞の実施とを沙汰された。

張均のことがあったので、十常侍も反対せず、むしろ自分らの善政ぶりを示すように、ほんの形ばかりな辞令を交付した。
その中に、劉備玄徳の名もあった。

それによって、玄徳は、中山府(ちゅうざんふ)の安喜県(あんきけん)の尉(い)という官職についた。
県尉(けんい)といえば、片田舎の一警察署長といったような官職にすぎなかったが、帝命をもって叙せられたことであるから、それでも玄徳は、ふかく恩を謝して、関羽、張飛を従えて、即座に、任地へ出発した。

もちろん、一官吏となったのであるから、多くの手兵をつれてゆくことは許されないし、必要もないので五百余の手兵は、これを王城の軍府に託して、編入してもらい、ほんの二十人ばかりの者を従者として連れて行ったに過ぎなかった。

その冬は、任地でこえた。
わずか四ヵ月ばかりしか経たないうちに、彼が役についてから、県中の政治は大いに革(あらた)まった。
強盗悪逆の徒は、影をひそめ、良民は徳政に服して、平和な毎日を楽しんだ。

「張飛も関羽も、自己の器量に比べては、今の小吏のするような仕事は不服だろうが、しばらくは、現在に忠実であって貰いたい。時節はあせっても求め難い」

玄徳は、時おり二人をそういって慰めた。それは彼自身を慰める言葉でもあった。
その代り、県尉の任についてからも、玄徳は、彼らを下役のようには使わなかった。共に貧しきにおり、夜も床を同じようにして寝た。

するとやがて、河北の野に芽ぐみだした春とともに、
「天子の使いこの地に来る」
と、伝えられた。

勅使の使命は、
「このたび、黄巾の賊を平定したるに、軍功ありといつわりて、政廟(せいびょう)の内縁などたのみ、みだりに官爵をうけ或いは、功ありと自称して、州都に私威を振舞う者多く聞え、よくよく、正邪を糺(ただ)さるべし」
という詔(みことのり)を奉じて下向(げこう)してきた者であった。

そういう沙汰が、役所へ達しられてから間もなく、この安喜県へも、督郵(とくゆう)が下って来た。
玄徳らは、さっそく関羽、張飛などを従えて、督郵の行列を道に出迎えた。
何しろ、使いは、地方巡察の勅を奉じてきた大官であるから、玄徳たちは、地に坐して、最高の礼をとった。

すると、馬上の督郵は、
「ここか安喜県とは。ひどい田舎だな。何、県城はないのか。役所はどこだ。県尉を呼べ。今夜の旅館はどこか、案内させて、ひとまずそこで休息しよう」
と、いいながら、傲然(ごうぜん)と、そこらを見廻した。

勅使督郵の人もなげな傲慢さを眺めて、
「いやに役目を鼻にかけるやつだ」と、関羽、張飛は、かたはらいたく思ったが、虫を抑えて、一行の車騎に従い、県の役館へはいった。

やがて、玄徳は、衣服を正して、彼の前に、挨拶に出た。
督郵は、左右に、随員の吏を侍立させ、さながら自身が帝王のような顔して、高座に構えこんでいた。

「おまえは何だ」
知れきっているくせに、督郵は上から玄徳らを見下ろした。
「県尉玄徳です。はるばるのご下向、ご苦労にございました」

拝(はい)をほどこすと、
「ああ、おまえが当地の県の尉か。途々、われわれ勅使の一行が参ると、うすぎたない住民どもが、車騎に近づいたり、指さしたりなど、はなはだ猥雑(わいざつ)な態(てい)で見物しておったが、かりそめにも、勅使を迎えるに、なんということだ。思うに平常の取締りも手ぬるいとみえる。もちっと王威を知らしめなければいかんよ」

「はい」
「旅館のほうの準備は整うておるかな」
「地方のこととて、諸事おもてなしはできませんが」
「われわれは、きれい好きで、飲食は贅沢である。田舎のことだから仕方がないが卿(けい)らが、勅使を遇するに、どういう心をもって歓待するか、その心もちを見ようと思う」

意味ありげなことをいったが、玄徳には、よく解し得なかった。けれど、帝王の命をもって下ってきた勅使であるから、真心をもって、応接した。
そして、ひとまず退がろうとすると、督郵はまた訊いた。

「尉(い)玄徳。いったい卿は、当所の出身の者か、他県から赴任してきたのか」
「されば、自分の郷家はタクケン出身で、家系は、中山靖王(ちゅうざんせいおう)の後胤(こういん)であります。久しく土民の中にひそんでいましたが、この度ようやく、黄巾の乱に小功あって、当県の尉に叙せられた者であります」
と、いうと、
「こらっ、黙れ」
督郵は、突然、高座から叱るようにどなった。

「中山靖王の後胤であるとかいったな。怪(け)しからんことである。そもそも、このたび、帝がわれわれ臣下に命じて、各地を巡察せしめられたのは、そういう大法螺(おおぼら)をふいたり、軍功のある者だなどといつわって、自称豪傑や、自任官職の輩(やから)が横行する由を、お聞きになられたからである。汝の如き賤しき者が、天子の宗族などといつわって、愚民に臨んでおるのは、怪しからぬ不敬である。――ただちに帝へ奏聞し奉って、追っての沙汰をいたすであろうぞ。退がれっ」

「……はっ」
「退がれ」
「…………」

玄徳は、唇を動かしかけて、何か言わんとするふうだったが、益なしと考えたか、黙然と礼をして去った。

「いぶかしい人だ」
彼は、督郵の随員に、そっと一室で面会を求めた。
そして、何で勅使が、ご不興なのであろうかと、原因をきいてみた。

随員の下吏は、
「それや、あんた知れきっているじゃありませんか、なぜ今日、督郵閣下の前に出る時、賄賂(まいない)の金帛(きんぱく)を、自分の姿ほども積んでお見せしなかったんです。そしてわれわれ随員にも、それ相当のことを、いちはやく袖の下からすることが肝腎ですよ。何よりの歓迎というもんですな。ですからいったでしょう督郵様も、いかに遇するか心を見ておるぞよってね」
玄徳は、唖然として、私館へ帰って行った。

私館へ帰っても、彼は、怏々(おうおう)と楽しまぬ顔色であった。

「県の土民は、みな貧しい者ばかりだ。しかも一定の税は徴収して、中央へ送らなければならぬ。その上、なんで巡察の勅使や、大勢の随員に、彼らの満足するような賄賂(わいろ)を贈る余裕があろう。賄賂も土民の汗あぶらから出さねばならぬに、よくほかの県吏には、そんなことができるものだ」
玄徳は、嘆息した。

次の日になっても、玄徳のほうからなんの贈り物もこないので、督郵は、
「県吏をよべ」と、他の吏人を呼びつけ、
「尉玄徳は、不埓(ふらち)な漢(おとこ)である。天子の宗族などと僭称しておるのみか、ここの百姓どもから、いろいろと怨嗟(えんさ)の声を耳にする。すぐ帝へ奏聞して、ご処罰を仰ぐから、汝は、県吏を代表して、訴状をしたためろ」といった。

玄徳の徳に服してこそはいるが、玄徳に何の落度も考えられない県の吏は、恐れわななくのみで、答えも知らなかった。
すると、督郵も重ねて、
「訴状を書かんか、書かねば汝も同罪と見なすぞ」と、脅した。

やむなく、県の吏は、ありもしない罪状を、督郵のいうままに並べて、訴状に書いた。督郵は、それを都へ急送し、帝の沙汰を待って、玄徳を厳罰に処せんと称した。

この四、五日。
「どうも面白くねえ」
張飛は、酒ばかり飲んでいた。

そう飲んでばかりいるのを、玄徳や関羽に知れると、意見されるし、また、この数日、玄徳の顔色も、関羽の顔色も、はなはだ憂鬱なので、彼はひとり、
「……どうも面白くねえ」をくり返して、どこで飲むのか、姿を見せず飲んでいた。

その張飛が、熟柿(じゅくし)のような顔をして、ロバに乗って歩いていた。町中の者は、県の吏人(やくにん)なので、ロバと行きちがうと、丁寧に礼をしたが、張飛は、ロバの上から落ちそうな恰好して、居眠っていた。

「やい。どこまで行く気だ」
眼をさますと、張飛は、乗っているロバにたずねた。ロバは、てこてこと、軽い蹄(ひづめ)をただ運んでいた。

「おや、なんだ?」
役所の門前を眺めると、七、八十名の百姓や町の者が、土下座して、なにか喚(わめ)いたり、頭を地へすりつけたりしていた。

張飛は、ロバをおりて、
「みんな、どうしたんだ。おまえら、なにを役所へ泣訴しておるんだ」と、大きな声をあげた。
張飛のすがたを見ると、百姓たちは、声をそろえていった。

「旦那はまだなにもご存じないんですか。勅使さまは、県の吏人に、訴状を書かせて、都へさし送ったと申しますに」
「なんの訴状をだ」
「日頃、わしらが、お慕い申している、尉の玄徳さまが、百姓いじめなさるとか、苛税(かぜい)をしぼり取って、私腹を肥やしなすっているとか、何でも、二十ヵ条も罪をかき並べて、都へその訴状が差廻され、お沙汰が来次第に罰せられるとうわさに聞きましたで。……わしら、百姓どもは、玄徳さまを、親のように思っているので、皆の衆と打揃うて、勅使さまへおすがりにきたところ、下吏(したやく)たちに叩き出され、この通り、役所の門まで閉められてしもうたので、ぜひなくこうしているとこでござりまする」
聞くと、張飛は、毛虫のような眉をあげて、閉めきってある役館の門をはったと睨みつけた。

打風乱柳(だふうらんりゅう)

「おい」
張飛はいった。大地に坐っている大勢の百姓町民へ向って、
「おまえ達は、退散しろ。これから俺がやることに、後で、かかり合いになるといけないぞ」
しかし百姓たちは、泥酔しているらしい張飛が、何をやりだすのかと、そこを起っても、まだ附近から眺めていた。

張飛は、門を打ち叩いて、
「番人どもっ、開けろ、開けなければ、ぶちこわすぞっ」と、どなり出した。
役館の番卒は、「何者だっ」と、中から覗き合っていたが、重棗(ちょうそう)の如き面(おもて)に、虎髯(こぜん)を逆だて、怒れる形相に赤い朱色の染料をそそいだ巨漢(おおおとこ)が、そこを揺りうごかしているので、
「誰だ、誰だ?」と、さわぎ立ち、県尉玄徳の部下だと聞くと、督郵(とくゆう)の家来たちは、
「開けてはならぬぞ」と、厳命した。そして人数をかためて、門の内へさらにまた、幾重にも人垣(ひとがき)を立ててひしめき合っていた。

その気配に、張飛はいよいよ怒りを心頭に発して、
「よしっ、その分ならば!」
門の柱へ両手をかけたと思うと、地震(ない)のようにみりみりとそれは揺れだして、あれよと人々の驚くうちに、すさまじい物音立てて内側へ倒れた。

中にいた番卒や督郵の家来たちは、逃げおくれて、幾人かその下敷になった。張飛は、豹の如く、その上を躍り越えて、
「督郵はどこにいるかっ。督郵に会わんっ」と、咆哮(ほうこう)した。

番卒たちは、それと見て、
「やるな」
「捕えろ」と、さえぎったが、
「えい、邪魔な」
とばかり張飛は投げとばす、踏みつぶす、撲りたおす、あたかも一陣の旋風が、塵を巻いて翔(か)けるように、役館の奥へと躍りこんで行った。

折から勅使督郵は、昼日中というのに、帳(とばり)を垂れて、この田舎町のひなびた唄い女(うたいめ)などを相手に酒を飲んでいたところだった。
淫(みだ)らな胡弓(こきゅう)の音を聞きつけて、張飛がその室をうかがうと、果たして正面の榻(とう)に美人を擁して酔いしれている高官がある。まぎれもない督郵だ。

張飛は、帳を払って、
「やいっ佞吏(ねいり)、腐れ吏人(やくにん)。よくもわが義兄玄徳に汚名をぬりつけ、偽罪の訴状を作って都へ上(のぼ)せたな。先頃からの傲慢無礼といい、勅使たる身がこの態たらくといい、もはや堪忍はならぬ。天に代って、汝を懲らしめてやるからそう思え」
眼は百錬の鏡にも似、髭はさかしまに立って、丹の如き唇(くち)を裂いた。

「――きゃっ」と、胡弓や琴をほうりだして妓(おんな)たちは榻(とう)の下へ逃げこんだ。

督郵も、ちぢみ上がって、
「なんじゃ、待て、乱暴なことをするな」
と、ふるえ声で、逃げかけるのを、張飛はとびかかって、
「どこへ行く」
軽く一つ撲ったが、督郵は顎(あご)でもはずしたように、ぐわっと、歯をむいたままふん反(ぞ)った。
「じたばたするな」
張飛は、その体を軽々と横に引っ抱えると、また疾風のように外へ出て行った。

門外へ出てくると、
「犬にでも喰われろ」
と、張飛は、引っ抱えてきた督郵のからだを、大地へたたきつけて罵った。

「汝のような腐敗した佞吏(ねいり)がいるから、天下が乱れるのだ。乱賊は打つも、佞吏を懲らす者はない。人のなし得ぬ正義をなし、人の抗し得ぬ権力に抗す。それを旗幟(きし)とする義軍の張飛を知らずや。やいっ」

督郵の顔を踏んづけて、張飛がいうと、督郵は、手足をばたばたさせて、
「者どもっ。この狼藉(ろうぜき)を。――この乱暴者を、搦(から)め捕れ。誰かいないか」
悲鳴に似た声でわめいた。

「やかましい」
髻(もとどり)をつかんで引廻した上、張飛は、門前の巨きな柳の樹に目をつけて、
「そうだ、見せしめのために」
と、督郵の両手を有りあう縄で縛りあげ、その縄尻を柳の枝に投げて、吊しあげた。

柳から生(な)った人間のように、督郵の足は宙に浮いた。張飛は、彼が暴れても落ちないように縄の端を幹に巻いて、
「どうだ、やいっ」
と、一本の柳の枝を折って、まずぴしりと一つ撲った。

「痛いっ」
「あたり前だ」と、また一つ打ち、
「悪吏の虐政に苦しむ人民の傷(いた)みはこんなものじゃないぞ。汝も、廟鼠(びょうそ)の一匹だろう。かの十常侍(じょうじ)などいう佞臣(ねいしん)の端くれだろう。その醜い面をさらせよ。その卑しい鼻の穴を天日に向けて哭(な)けっ。――こうか、こうか、こうしてやる」

柳の枝は、すぐ粉々になった。
また新しい柳の枝を折って撲りつけるのだった。三十、四十、五十、二百以上も打ちすえた。

督郵は、見栄もなく、ひイひイひイと声をあげて、
「ゆるせ」と、泣き声だし、
「待て、待ってくれ。なんでもいう通りにするから」
と、遂には、涙さえこぼして、あわれっぽく叫んだが、
「だめだ。その手は食わぬ」
と、張飛は、乱打をやめなかった。

その日も玄徳は、私宅に閉じこもって、怏々(おうおう)とすぐれない一日を過していたが、誰やらあわただしく門をたたく者があるので自身出てみると四、五名の百姓が、
「大変です。今、張飛さまが、お酒に酔って、役所の門をぶちこわし、勅使の高官を、柳の木に吊しあげて打ちすえております」
と、告げて去った。玄徳は驚いて、そのまま馳けだして行った。

折ふし居合せた関羽も、
「ちぇッ、張飛のやつ、また持病を起したか」
と、舌打ちしながら、玄徳の後から馳けつけた。

見ると、柳に吊されている督郵は、衣裳もやぶれ、脛(はぎ)は血を流し、顔面は紫いろにふくれていた。もう少し遅かったら、すんでのこと、撲り殺されていたであろう。

仰天して、玄徳は、
「これっ、何をする」と、張飛の腕くびをつかんで叱りつけた。
張飛は、大息つきながら、
「いや、止めないで下さい。民を害する逆賊とはこいつのことです。息のねを止めないでは俺の虫がおさまらん」
と、玄徳のさえぎりなどは物ともせず、さらに、柳鞭(りゅうべん)をうならせて、督郵のからだを所きらわず打ちつづけた。

悲鳴を放って、張飛の鞭にもがいていた督郵は、柳の梢から玄徳のすがたを見つけて、
「おお、それへ来たのは、県尉玄徳ではないか。公の部下の張飛が、酒に酔って、わしをかくの如く殺そうとしている。どうか早く止めてくれ。もしわしを助けてくれたなら、このまま、張飛の罪も不問にし、おん身には、帝に急使を立てて前の訴状をとどめ、代わるに充分な恩爵をもって酬(むく)ゆるであろう」と、叫んでまた、
「はやく助けてくれ」
と何度も悲鳴をくり返した。

そのいやしい言葉を聞くと、張飛の暴を制しかけていた玄徳も、かえって止める意志をさまたげられた。
けれど、彼は、いかに醜汚(しゅうお)な人間であろうとも、勅命をうけて下った天子の使いである。玄徳は、叱咤して、
「止めぬかっ張飛」と、彼の手から柳の枝を奪い、その枝をもって張飛の肩を一つ打った。

玄徳に打たれたことは初めてである。さすがの張飛も、はっと顔色を醒まして棒立ちになった。もちろん不平満々たる色をあらわしてではあったが。
玄徳は、柳の幹の縄を解いて、督郵のからだを大地へ下ろしてやった。すると、それまで、是とも非ともいわず黙って見ていた関羽が、つと馳け寄ってきて、
「長兄。お待ちなさい」
「なぜ」
「そんな人間を助けてやったところで、所詮、むだなことです」

「何をいう。わしはこの人間から利を得るために助けようとするのではない。ただ、天子の御名を畏(おそ)るるのみだ」

「わかっております。しかしそういうお気持も、いったいどこに通じましょうか。前には、身命を賭(と)して、大功を立てておられながら、わずか一県の尉に封ぜられたのみか、今また、督郵のごとき腐敗した中央の吏に、最大の侮辱をうけ、黙っていれば、罪もなき罪におとし入れられようとしているではありませんか」

「……ぜひもない」
「ぜひもないことはありません。こんな不法は蹴とばすべきです。先頃からそれがしもつらつら思うに、枳棘叢中(ききょくそうちゅう)鸞鳳(らんほう)の栖(す)む所に非ず――と昔からいいます。棘(いばら)や枳(からたち)のようなトゲの木の中には良い鳳(とり)は自然栖んでいない――というのです。われわれは栖む所を誤りました。如(し)かずいちど身を退いて、別に遠大の計をはかり直そうではありませんか」

関羽には、時々、訓(おし)えられることが多い。やはり学問においては、彼が一日の長を持っていた。
玄徳はいつも聴くべき言はよく聴く人であったが、今も、彼の言をじっと聞いているうちに、大きくうなずいて、
「そうだ。……いいことをいってくれた。我れ栖む所を誤てり」
と、胸にかけていた県尉の印綬(いんじゅ)を解いて、督郵にいった。

「卿は、民を害する賊吏、今その首(こうべ)を斬って、これに梟(か)けるはいと易いことながら、恥を思わぬ悲鳴を聞けば、畜類にも不愍(ふびん)は生じる。あわれ、犬猫と思うて助けてとらせる。――そしてこの印綬は、卿に託しておく。我れ今、官を捨てて去る。中央へよろしくこの趣(おもむき)を取次ぎたまえ」

そして張飛、関羽のふたりをかえりみて、
「さ。行こう」
と、風の如くそこを去った。

霏々(ひひ)と散りしいた柳葉の地上に督郵は、まだ何か、苦しげに喚(わめ)いていたが、玄徳らの姿が遠くなるまで、前に懲りて、近づいていたわり助ける者もなかった。

変更箇所等

屠(ほふ)った — 狩った
云い -- 言う
折ふし -- その時々。ちょうどその時。
左(さ)はいえ -- そうは言っても
憚る(はばかる) -- 気兼ねする。遠慮する 
鼎座(ていざ) -- 向かい合って座る
檄(げき) -- 自分の意見を述べて、公衆に呼びかける。決起をうながす文書。
衷情(ちゅうじょう) -- まごころ。誠意。
曳い -- 引いていく。
頒(わか)ちあう -- 分かち合う 
倉皇(そうこう) -- どうしたらよいか、判らない
鄭重(ていちょう) -- 丁寧な様子
嶮(けん) -- 山が険しい
虱(しらみ)のごとく -- シラミの如く。隙間も無いぐらいに密集している
挺身(ていしん) -- 自分から進んで身を投げ出して物事をすること
紊だし(みだし) -- 乱す
おめきながら -- 大声で
豎子(じゅし) -- 未熟な者。青二才。
轡(くつわ) -- 馬具の一種。【凱旋の轡をならべる→戦闘の門出を祝う】
駒 -- 馬
鬨(とき)の声 -- 合図の声
趁(お)う -- 追う
蔽(おお)った — 覆った

拱(く)む -- 組む

惨澹(さんたん) -- いたましく、見るに忍びないほどであるさま。
首馘(き)る -- 敵を討ち果たした証拠。耳や首を討ち果たした証拠として残すこと。
賢慮(けんりょ) -- 懸命な考え

眸(ひとみ) — 瞳
奸(かん) -- 邪悪。よこしまな心
人墻(ひとがき) -- 人垣

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です